またまた戸田なっちの創作字幕騒ぎ(カトゆー家断絶さんから)

映画「キングダム・オブ・ヘブン」の理解を助けるWebサイト(6/3)
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一連の字幕をめぐる騒動を見ているとこの問題もマスコミ批判に近いものを感じる。
ネットという、情報を蓄積し、検証する場ができたことは「プロ」にとっては脅威だろうな。
特定のトピックを取り上げて徹底的に検証され、場合によっては自分のプロとしての資質全体を否定されかねないのだから。戸田奈津子がそれに反発するのも分かる。批判する側に、彼女ほど字幕翻訳のキャリアを積んだ人間はいないだろう。業界で信用と名声を積み上げてきた誇りもあるだろう。
しかし、特定の作品・分野で、彼女より知識のある人間はいくらでもいることを忘れてはならないのではないか。そして、今までなら意見を公表できなかったそういう人々が、ネットによって自分の意見を公にし、かつ交換することが出来るようになった。
そんな時代のプロには、自分のプロとしての名声・信用を危険にさらす仕事を見分け、そんな仕事を引き受けない、そんな処世術が必要になるのかもしれない。面倒な話だが。


ついでに言えば字幕翻訳という仕事の評価軸が一つにまとまりやすいというのが、批判を容易にしている側面も見逃せない。
R30::マーケティング社会時評の「運動系な人たちを批評することの難しさ」というエントリーに、こんな一節がある。

例えば企業の批評というのは、方法論的に言えばある意味非常にシンプルだ。要するに「正しい手段でどれだけの利益を上げているのか」というところに徹底的にフォーカスして論じればいい。この場合の「正しい」を、「法律を守っている」と取るか「人倫にもとらない」と取るか、その幅の解釈はいろいろあり得るだろうが、一方で「利益を上げている」かどうかというのは定量的に確認できるので、その部分については批評のロジックを一貫できる。


 問題は企業じゃない相手、例えば上のような運動系の団体だったり場だったりする。これを批評することは手続きとロジックの両方の意味において、めちゃくちゃ難しい。

映画本体なら、「興行収益をあげられたか」、「芸術性が優れているか」、「娯楽性が優れているか」などいくつもの評価軸がありうる。しかし、字幕翻訳については「いかに正確に物語を日本語に移しかえているか」しかない。その分、世論を集約しやすい。しかも、戸田奈津子はテレビに出演し、堂々と最初に字幕翻訳戸田奈津子と名前を入れるなど、非常に露出が大きい。その分だけ、攻撃目標になりやすいのは確かだろう。


とある程度、情状酌量の余地、あるいは戸田奈津子の字幕批判に対する意固地な反応について、理解はできる。しかし、やはり戸田奈津子自身のプロとしての資質には疑問の目を向けざるを得ない。
大学のゼミなどで海外の論文を全部翻訳するということをやったことがあるが、内容をきっちり理解していないと、字面だけ訳しても訳わかめなものしかでき上がらない。人に見せる場合、訳しているものに関連した広範な知識が要求される。
原作もの、「指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)」や「オペラ座の怪人」なら、見る前から基本的内容を知っていて、その素材がどう料理されるか楽しみにしている人が多い。そのことが分かっているはずなのに、なぜか非常に安易な、通り一遍訳してその後見直していないような字幕が出てくる。歴史物でも基礎的な、高校教科書レベルの知識すら欠いた翻訳がされている。
ストーリー全体の流れ・テーマを理解した上で、慎重に訳さなければならない箇所を、字面だけで適当に訳しているような場所も目に付く。(この辺は2ちゃんねる戸田奈津子スレにリストが載っている)
一つの作品にかける時間を極力削っているのか(ひらたく言えば手抜き)、あるいはストーリーを読み解く能力が劣っているのか。
どちらにしろ、プロとしての仕事を全うしていないと言わざるを得ないのだが。


こんなことを、庭の草を引っこ抜きながら、つらつら考えていた。