熊本県立美術館土曜連続セミナー

今週が3回目、最後。
以下、箇条書き。

阿蘇文書から描き出される南北朝内乱の様相。
近代の解釈では菊池氏が重視されるが、懐良親王下向の後醍醐綸旨や後村上天皇の綸旨が多数残るなど阿蘇氏への期待が大きかったことを指摘。

戦国期の状況を簡単にまとめ、阿蘇社修造、阿蘇惟豊叙位、その後についての3つのトピックを話す。手馴れた講演。


戦国期の阿蘇家は、2つの分裂を経験。
南北朝期以来の、惟村系(武家方)・惟武系(宮方)の分裂が続く。これは、1451年に惟村系の惟忠が、惟武系の惟歳を養子に迎えることで合一。
その後、1504年には菊池氏の嫡系が途絶え、阿蘇惟長が菊池氏を継ぐも家臣団と対立、矢部へ帰る。これによって、大宮司職を継いでいた弟の惟豊との対立が発生。益城郡の領主層の支持を得た惟豊が、堅志田城を落し、分裂を克服。小戦国大名として確立。


1472年の阿蘇社修造は肥後国内に棟別銭を賦課することで賄われたが、南部の国人領主(相良氏・名和氏など)は容易に応じなかった。阿蘇文書の書状では、相良氏は、翌年の9月になっても支払っていなかったことが分かる。
この経緯から、肥後国内に郡レベルの領域権力が自立・割拠し、守護菊池氏にも容易に従わない状況が生まれていたことが分かる。


続いて、1544年の阿蘇惟豊三位昇叙について。
これが惟豊と惟長の対立を克服した翌年のことであることに注目し、当主と一族内の有力者を差別化することで、一族内の紛争を克服する機能があったのではないか。
戦国阿蘇氏の財力は東アジア貿易と関連があった可能性が高い(浜の館の出土品から)。海の道が矢部まで達していたこと。
阿蘇惟豊は最終的に二位まで達しているが、これは武家領主としては希なことで、一般の武家とは異なる阿蘇氏の特異な身分(古代以来の神官の家系)を朝廷が認識していたのではないかの3点を指摘


阿蘇氏・阿蘇社の近世化。
戦国阿蘇氏は、島津氏の攻撃によって矢部を追われ滅亡する。島津氏は緩やかな主従関係を結ぶことで肥後を支配し、滅亡した領主は少ない。
阿蘇氏を滅亡させたことは、阿蘇氏が肥後国内に力を持ち、その存続が許容できなかったことを示している。
また、その際に文書類は男成神社に隠され、それによって消失を免れた。また、その後も、阿蘇家の人々・文化財関係者の努力によって保存されてきた。
阿蘇文書はそれらの人々の努力の賜物であるで締め。

  • 有木芳隆「阿蘇神道美術:とくに神像彫刻について」

神像彫刻が出現するまでの仏像・神像の展開と、阿蘇に残る神像について。
この手の美術品については、具体的なことは書かない方がいいだろう。略。