山田憲太郎『スパイスの歴史』

スパイスの歴史―薬味から香辛料へ (教養選書)

スパイスの歴史―薬味から香辛料へ (教養選書)

とりあえず、出典・注がないのはいただけない。「あるオランダ人学者が云々」などと書かれても、誰やねんとしか言いようがない。それを除けば非常に面白い。読みにくいが。
世界全体で、香辛料の文化を見渡しながら研究した書物はあまりないので、便利。


第一部は中国の胡椒需要と中国語史料による15世紀あたりまでの胡椒生産地の状況について。
中国では、胡椒は薬味として使用され、料理書・本草書などから7世紀あたりまでには主に西域から、搬入されていたことが明らかにされる。その後、10世紀末から中国の胡椒輸入は急増する。『諸蕃志』から、ジャワが主産地だったとする。
産地の状況については、14世紀前半の『島夷志略』からジャワ・ビルマ南部から輸入が行われ、マラバル海岸からの輸入に注目している。15世紀前半には鄭和の遠征にともなう史料『瀛涯勝覧』『星槎勝覧』から、スマトラ北部が新しい産地として台頭し、西方世界の胡椒需要にインドの産地が対応できなくなったことが原因であると推定する。一方、ジャワの胡椒生産が衰退していることを、ポルトガル史料も援用することで、指摘。後の17世紀にはジャワで胡椒生産が再活性化するが、これは新しいオランダ東インド会社の回路を利用したもので、国際通商に影響された産地の盛衰が見えて興味深い。
また、胡椒の生産と輸送量の推定から、中国の胡椒消費量がヨーロッパより大きかったことを指摘する。
また、この部分の最後のほうに、15世紀から17世紀あたまにかけての胡椒にかんする数量情報も興味深い。以下、メモ。

前にあげたピレスの報告によるとインドのマラバルは約3600トン、スマトラの西北部を中心にマレイ半島とスンダを合わせて3380トンの生産量となる。しかしぺディルでは2680トンの生産を見たときもあるというから、大体この地方を中心にインドのマラバルと同程度の生産であったと見てよかろう。そして大まかにマラバルとスマトラ北西部(マレイ半島とスンダを加え)で各々4000トン近くの生産であったと想像されよう。(p.57)

それから16世紀始めのポルトガル人が目的とした胡椒は、ほとんどインド南部のマラバル産であった。彼らの年間輸送量はどれくらいであったろうか。インドとポルトガル本国間を航海した船の隻数は年によって違いはあるが、大体年平均5隻内外が初期には往復している。船は500トン以上、800トンないし1000トンの大型船(ナウ)であった。そして、全積載量の二分の一以上は胡椒であったから、年間1600ないし2000トンが輸送された筈だと考えられる。しかしこれは表面的な計算上のことであって、全ヨーロッパの胡椒消費量の約70パーセント内外を輸送できたときが、ポルトガル人のインド貿易の最盛期であった。オランダの学者には、16世紀前半のヨーロッパの年間輸入量を1600トン内外と見ている人がある。16世紀末のリンスホーテンは当時のポルトガル船の胡椒年間輸送量を2000ないし2200トンと推定している。また1622年オランダ東インド会社の理事会は、ヨーロッパの年間消費量を3100トンと見積もっている。そして1688年には3400トンと推定している。そうすると全ヨーロッパの年間消費量を、15世紀末約1600トン内外、16世紀末には3000トン近くであったと見てよかろう。そしてすべてインドのマラバルからの供給にあおいでいるが、マラバルではこれ以外にペルシア本土とアラビアならびに近東地方の需要分を輸出しなければならない。こうしてマラバルの産出分だけではどうしても不足するから、この不足分をスマトラ西北部のぺディルとバセからの輸入によっていた。(58-9ページ)

浅田実著『商業革命と東インド貿易』でも、レーンに拠りながら、15世紀段階の香料輸入量(丁子・ナツメッグ込みで)を1750トンとしている(p.34)から、ここで指摘される数値はそれほど的外れでもないだろう。昔、調べたときの数値ともそれほど離れていない。
ここでの注目点は、15世紀末・16世紀初頭段階では、中近東イスラム圏の胡椒需要がヨーロッパに匹敵ないしはそれ以上あったこと。基本的には、中近東とヨーロッパは、胡椒流通に関して同じ流通圏に属していたから、中近東の胡椒需要、を知る上での手がかりになると思う。ひいては16世紀の地中海ルート・大西洋ルートの変動を考察する助けになる。


第二部は丁子産地のモルッカ諸島、ナツメッグ・メース産地のバンダ諸島、いわゆる香料諸島について取り上げている。中国語史料、ポルトガル人の報告などを元に、これらのスパイスの「文明世界」への普及、香料諸島の歴史的変遷などを明らかにしている。香料と交換された商品としては、布類・金属・鈴や陶磁器などがあげられている。これらは祭器・威信財であった可能性が高く、これらの商品の分配を通じて現地の支配者の権力が維持されたのだろう。
ルッカの丁子生産量についいては、800-1200トン前後と推定(p.108)。トメ・ピレスの生産量については疑義を呈している。また、115-6ページのカリカット市場の香料の価格表も興味深い。
第三部は、媚薬としての香料などをエッセイ調にあつかっているが、省略。