佐藤洋一郎『稲の日本史』

稲の日本史 (角川選書)

稲の日本史 (角川選書)

DNA分析など、農学的手法によって、日本の稲作の歴史を再構成したもの。
第一章は縄文稲作について。現在の焼畑がごく簡単な施設・道具を使用していることから、古代に焼畑で稲作が行われていたとしても、考古学的に検出することができないのではいかと指摘している。実際、使用していたのが石斧と全木製の突き棒だけだとしたら、道具の点からも見えてこない可能性が高いだろう。また、縄文時代の稲の伝来ルートについて検証している。
第二章は弥生の稲作についての再検証。本書の中で一番面白い部分。DNA分析から出土した炭化米の種類が熱帯ジャポニカであることが多いこと、花粉分析から稲が急速に増えたとはいいがたいこと、遺伝子分析から弥生時代に日本に来た温帯ジャポニカがごく少量だった可能性などを指摘している。
また、三番目の節の「休耕田がある!?」(p.90-98)が、とくに興味深い。静岡県の曲金北遺跡の水田遺構から雑草種子を採取し、一面あたりの雑草の種子数を数えた研究を紹介している。それによれば、場所によって雑草の種子の数は大きく違い、多いところでは雑草の株数が100株にも達し、その面は廃絶した年には耕作されていなかった可能性がある。また、面によってはヨシが生えている田がある。これらから、弥生時代水田稲作が休耕田をともなっていたのではないか、水かかりによって耕作する田が違っていたのではないかと指摘している。金田章裕『微地形と中世村落』に見える、中世の耕地の不安定性を見ても納得できる議論。
第3章は、歴史時代。熱帯ジャポニカ種の消長、恒常的な水田が地力の低下などの要因によって普及しなかったなど。江戸時代の常畑的な水田稲作は、それ以前の時代に比べると多投入耕作であったとも考えられる(水本邦彦『草山の語る近世』参照)。
縄文要素と弥生要素との二元論的な言及は、過度の単純化につながってしまう懸念があるが、近現代につながる恒常的な稲作は、相当新しい時代に普及したという考え方は非常に興味深く、また納得もできる。
以下、メモ。

しかし前節に書いたように、遺構や壊れにくい遺物はものによっては一種の積分値として私たちの目の前に現れる。弥生時代に水田の遺構が急速に増えたという事実は、その土地の全面が継続的に水田として使われていたことを意味するとは限らないのである。むしろ多くの場合、いったんはイネを植えられたことがある、というほうが適切なのかもしれない。
 そうだとすれば弥生時代水田稲作が一気に普及したというのは一種の幻想に過ぎず、実態はむしろ開田しては廃絶し、また新たな土地を田に開くということをくりかえしていたのではないかとさえ考えられるのである。
p.87-88

 弥生時代の稲作が縄文稲作の延長であるとするならば、弥生時代の人々はどのようにして食料を手に入れていたのだろうか。これについては寺沢薫さんのおもしろい研究がある。寺沢さんは弥生時代の遺跡から出土した食料資源の種子などをきちんと調べ上げ、前項の図のようなデータをまとめあげらた。これによると、弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。もし弥生時代が稲作中心の時代であり、米に対する依存度が高ければこんな値は出てこない。しかもドングリといえば栽培によって得られる食料資源ではなくあくまで採集によって得られる資源である。こうして考えてみれば、弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもないという推定が得られるのである。
p.113

このうち米田さんと吉永淳さんの研究成果は、弥生時代の食生活を知る上できわめて興味深い。彼らは縄文人の集団と弥生人の集団の骨を分析し、二つの同位体比を調査した。その結果、弥生人たちの骨に含まれる同位対比の値は、米を主食とする人びとのそれとは遠く、かえってさまざまな海の動植物を食べていた縄文人のそれにきわめて近かったというのである。
p.115