立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論

ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論

空間節約のために処分予定の本。ハードカバーでは、場所を取るので、次読むときは借りるか、文庫で。改めて読みなおすと結構面白い。全部が全部面白いわけではないが、「体験的独学の方法」や「ぼくはこんな本を読んできた」の章がいい。

そういう最先端の研究者に話を聞きにいく前というのは、準備が大変なんです。だいたいどんなジャンルでも、専門家というのは、インタヴュアーがする質問によって、その問題に関してその人がどれだけの基礎知識を持っているのかということをすぐに見抜きます。それでその質問があまりにも浅い、表層的なものだと、専門家というのはものすごくいい加減な答えしかしてくれません。これはもう、呆れるほどいい加減な答えしかしないものです。どの専門家も忙しいですから、愚劣な質問につきあっている暇はないわけです。この人はこの程度の答えで満足するだろうという見きわめをつけたら、それ以上のことは時間の節約のために全部省略してしまうわけです。専門的なことを素人にいくら説明してもわかってもらえるはずがないから、余計な説明は時間の無駄と思うわけです。
ところが質問の仕方をちょっと変えて、こちらがある程度ちゃんとした予備知識をもってインタビューしているんだということが相手にわかるようにすると、答えのレベルがさっと変わります。それでもまだ軽い答えしか返してこないようなら、その答えに対して、問題をさらに深めるような質問をすると、相手もああ、これはあまりいい加減な答えをしてちゃだめなんだということがわかって、そこから答え方がまったく違ってくるわけです。
p.13

この部分を読むと、福島県立大野病院事件第三回公判(2)の記事で、医師たちがいい加減な証言を取り調べの段階でしている理由が分かるのではないだろうか。話の通じない人に、懇切丁寧に説明しても疲れるだけなのでは? まともな証言を引き出せなかった警察・検察の対話能力のなさ、専門的知識のなさが指弾されるべきではないだろうか。不毛な尋問から早く解放されたいだろうし。
少なくとも、警察・検察に医療事故を捜査する能力が欠けていると言うことははっきりしているとおもう。

次に、ぜひとも欠かせないのは、その学問の歴史、学説史、思想史である。1つの学問の世界に入っていくとき、まず何より必要なのは、その世界全体のパースペクティブを手早く頭の中に入れてしまうことである。
その学問が何をどう問題にしているか。その問題への切込み方――方法論はどうしているか。その学問によって、何がわかっており、何がわかっていないのか。

ここは大事だな。この本を買ったときにはよくわかっていなかったが。