「村八分」訴訟で分断続く新潟の関川村 夏祭りにも影(情報元:caprinのヲタ更正日記さん)

http://www.asahi.com/national/update/0705/TKY200707050361.html


 私自身も反射的にウェーと思ってしまう。が少し冷静になって、「これだから田舎は」とかその方向でなく、この問題を見てみたい。そもそも、ここまで揉めるようなことが少数事例だから、新聞ネタになる。また、歴史学なんかでも、裁判や紛争の分析を通じてその社会の研究はよくある。このような、社会に走った亀裂が、普段は見えないようなことをかいま見せる。
 まあ、この手の田舎の人付き合いがとことんウザそうなのは確かだが、人間が二人以上いればどっちにしろ煩わしいことには変わりない。
 ちなみに、この件に関する情報源が朝日の新聞記事だけ、まあその程度の話。


1、祭りの機能の形骸化
 この対立の発端は、住民の一部が「イワナのつかみ取り大会」への不参加を申し出たことにある。ここには、村落の祭の形骸化が見える。村の「祭」とは、単調な生活の中での重要な娯楽であると同時に、「ムラ」の住人の結束の確認・強化を図る場でもある。しかし、現代社会では「祭」は娯楽足りえなくなっている。イワナの掴み取り程度では疲れるだけで面白くもなんともないという人はけっこう多いだろう。実際、家でテレビを見ながらゴロゴロしていた方がはっきり言って楽ではある。こうなってしまえば、娯楽も重要な要素である祭は機能しない。また、お盆に行われる  「祭」が民俗宗教的な儀礼ではなく、「イワナのつかみ取り大会」なのも祭りの空洞化を示しているだろう。
 それに対し、「村八分」を発動した方は、「ムラ」の結束を乱すものと見なしたのだろう。「祭」への不参は、古い世代から見ると、重大な政治的行為と写ったのではないか。行動パターンの変化を考えると、古い方法を維持するのもだんだん無理が出てくるのだが。


2、仲裁機能の形骸化
 最近読んだ菅豊『川は誰のものか』で感じたことも含めて。
 このように村落内での紛争が内部で解決不能になった場合、近世を例に取れば、近隣村落の有力者が間に入っての仲裁、肥後藩では惣庄屋、あるいは大庄屋など地域を管掌する人間が出てくる。さらに、領主に訴え出て、交渉でことを治めるように命令され、それでも解決しないようなら領主の裁判となる。何段階にも仲裁の場があり、紛争を調停していくようになっている。近代には、どうなっているのか分からないが、現在はそのような仲裁機能がまったく存在しなくなり、村内で解決できない紛争は一足飛びに裁判に行くか、無理矢理強要するしかなくなる。
 「ムラ」は現在まで分解されながらも存続しているが、村落連合体的な関係で構成された「地域」は消滅してしまった。そのギャップを現在の制度が埋め切れていないという問題があるだろう。今現在も、公共サービスの一部をそのようなムラに依存している(治水・防災など)。それを考えると、それに応じた制度再構築が必要なのではないだろうか。都市内のご近所トラブルでも、ある程度職権で強く介入できる制度が必要に見える。日本の司法制度におけるこの手の仲裁制度の弱さは、大きな欠点だと思う。新聞の記事で読んだことがあるが、ヨーロッパでは近隣トラブルを仲裁する試みが行われているようだが。
 しかし、提訴まで何ヶ月か間があるし、裁判所も和解を勧めただろうから、このあたりどうしてここまでこじれたかは分からない。


3、どうして村を離れることが出来ないのか

村民の中には原告側に賛同する人もいるが、「代々の家や土地があって集落を離れることができない。自分も村八分になるかも知れず、それを考えると表立っては言えない」と打ち明ける。

 基本的に、ムラは閉鎖社会といっても割合気軽に移動しているものなので、どうしてこうなるのかと考えてしまう。
 近世中期には「潰れ百姓」などという用語がよく出てくるが、要はよりよい機会を求めてほかに移住すること。それだけでなく歴史人口学の成果などを見ると、基本的に人はけっこう動いている。
この集落でそれが出来ないのはなぜなのか。
 これについて、土地や動産の価値が戦後に増大したせいかと最初考えたが、もう1つ、移動しそう・できるような人間・家はもうどこかに移住してしまって、残っているのは財産や地位があって、ほかに移動するのが経済的に引き合わない人間ばかりという可能性もある。


4、経営共同体としてのムラの形骸化
 「ゴミ収集箱の使用や山での山菜採りなどを禁じた」 これは、入会権の名残だろうが、ある意味、共有林の意義低下をまざまざと見せるものだと興味深く感じた。もう山は山菜取りくらいしか使わない状態なのだろう。木材用の木や山林は個人の財産だから、他者が介入できない。ある意味、だからこそ長々と紛争を続けていられる。
 戦前までであれば、この手の入会権の停止は死活問題であり、対象とされたものは早晩屈服を余儀なくされただろうし、それだけに慎重に動いただろう。逆に、「村八分」を行う方も、もう少し慎重になったのではないだろうか。集落の三分の一を対象にしたものであり、死活問題に関わるような制裁を行えば、100年ほど前であれば冗談抜きに血を見たかもしれないと思う。
逆に、ムラも祭も入会権も形骸化したからこそ、このような紛争をのどかに続けていられるのかもしれない。当事者は胃が痛くて仕方ないだろうけど。


 つらつらと考えたことを並べたが、この件に関しては「有力者」側がアレっぽい感じが濃厚にするな。

原告側住民は「どんな状況になっても、モノが言えない集落の空気を壊したかった」と訴える。村民の中には原告側に賛同する人もいるが、「代々の家や土地があって集落を離れることができない。自分も村八分になるかも知れず、それを考えると表立っては言えない」と打ち明ける。

 この状況だと多数派工作次第で、状況が逆転しそうな気もする。三分の一という人数はけっこう大きいし。
 ただ、「有力者」の方にも議員かなにかの役職者か大地主がいるのだろうな。
あと、賠償を求めたことがこじらせた可能性もあるか。


「自分も村八分になるかも…」 有力者の“村八分ルール”で分断続く村、夏祭りにも影…新潟
お決まりの「だから田舎は」が多いが、新興住宅地やマンションでも、町内会や管理組合は関わる人によって違うだろうが、かなり煩わしい。行動原理はあまり田舎と変わらないような感じだ。まあ、私自身も親にまかせっきりだが。ここに書いている人間は若くて財産を持たない人間が多そうな感じがする。まあ、賃貸の方が気楽なのは確かだろう。
 ただ、この件は極端な例だが、共同で何かを行う必要は人間社会を維持する上で必要なわけで、何らかの折り合いが必要なのだろう。その折り合いが、軽いとはいえアスペルガーの人間には果てしなく高い壁なのだが。そして、この件の逆の極端に、コンピューターで完全に監視・管理される社会というのもありえるようになってきたわけで、それはそれで遠慮したい。世の中、程々が一番なのだろう。

343 名前:名無しさん@八周年 投稿日:2007/07/06(金) 11:54:06 ID:ZUUVLAhp0
俺の田舎は冬に山に枯れ草を焼くという野焼きの風習があり、
各家庭から一名参加しなければならない決まりになっているが、
これに参加しない家庭は罰金2万円を払わなければならない
共働きの夫婦などは平日はどちらも仕事で参加できないので、
仕方なく罰金を払って参加しない事になるが、
それでも「あそこは参加しなかった。何考えてんだ」って陰口叩かれるんだぜ
ちゃんと罰金払って、その上文句言われる
このクソ田舎どうにかしてくれ


379 名前:名無しさん@八周年
投稿日:2007/07/06(金) 11:58:20 ID:jEXAZqsS0
難しいところだけど
金を払って誰かにやってもらうことを自分たちでやっていく
これが苦痛ならイナカには、すめないってことだわな。
金を出すのが個人ではなく自治体ならば「税金を使う」ということになるわけで。

代わりにバイトを派遣すればヨロシ。