五十嵐太郎編『見えない震災』

見えない震災―建築・都市の強度とデザイン

見えない震災―建築・都市の強度とデザイン

スクラップ・アンド・ビルドに批判的な立場の人々による、耐震偽装事件に関する書物。リノベーション関係者の文章や耐震構造研究の歴史をまとめた文章などが収録されている。これを読むと、耐震強度なるもの、あるいは工学的な耐震強度の分析が、かなりあやふやなものであるという印象を持つ。少なくとも、現在の分析が、かなり微妙なシミュレーションによるもので、個々の建物の実態に即して検証されたものでないように感じる。
鉄筋コンクリの建物、新しい基準の建物が絶対安心というものではない。古い建物も保存しつつ、それぞれ建物に即してリスク管理をおこなう方が、現実的なのではないかとも思える。
以下メモ:

ちなみに、二〇〇二年、国会のマンション建て替え円滑化法案の審議では、三十年ごとの建て替えを法律化しようとした。平松朝彦によれば、実際のマンションが三十数年で建て替えられていることだけを根拠に、三十年を老朽化の目安にしたらしい。法律によって建築の破壊すなわち寿命を決めるのだ。ここに建築を文化と見なす考え方も、社会資本としてマンションを長く使う発想もない。値上がりを期待する投資の対象になっている。p.11

地球環境を考えた場合、鉄筋コンクリの建造物をたった三十年で使い捨てにするのは問題だろう。つうかそのくらいで建て替えてしまうのか。短いな。

「狭く屈曲した街路が迷路のようにつづき、公園や広場などオープンスペースに乏しい。これらの地域は木造賃貸アパートが密集することから通常、木賃ベルト地帯と呼ばれる。これらの地域に残る下町らしい人間臭さ、人情味、そのコミュニティを評価する人も世間にはいよう。しかし、このような住環境を本当にその地域の人々が望んでいるのかどうかは大変、疑問である。少なくとも消防車など緊急車両の出入りに不都合がある状態を放置しておくことは、都市計画の立場からは認めるわけにはいかない」。ここに不動産屋やデベロッパーのような損得勘定はないだろう。ひたむきな善意によって、開発主義が唱えられている。それは純粋な職業意識によるものだ。p.21

この孫引きの文には、都市計画家の傲慢がはっきりと表れている。お前ら愚民は、賢明なるわれわれに従うべきであるといわんばかりだ。ついでに言えば、ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』で批判されている、オープンスペース教信者でもある。オープンスペースもあればいいものではない。
かぎカッコ内の文章を書いた人物は、『復興計画』(ISBN:4121018087)の著者だが、同書でも同じような傲慢を感じた。なんで「合理的な」復興計画に反対が強いのかを考えたことがあるのだろうか。また、道は広ければ広いほど良い、オープンスペースは多いほど良いという単純思考は疑問を感じる。

第二には「地形の高低凹凸に順応して、道路を造るべきであるのに、それらに殆ど無頓着で、谷を埋め、山を崩し、単純な直線道路を造ったものが少なくない。これが実に無謀であると思ふ」… p.151


人間の生活を包括的に守り支えるものの強度として、「建築の強度」は「まちの強度」と相関性を示す。そして「まちの強度」を確保するための手法として、スクラップ・アンド・ビルドを前提とした事業は、震災後の神戸にさまざまな社会状況の変質をもたらした。それは必ずしも多くの住民が望んだものではなかった。一方、施策としての自力再建が求められ支援制度からは放置された「灰・白地域」においては、課題を積層させて凍りついた空地が偏在し、二極化がモザイク状に進む状況が生まれた。ここには、スクラップ・アンド・ビルドという手法すら期待できない。これは日本にあまねく広がる既成市街地の未来を暗示している。「まちのリノベーション」手法を探ることしか、そこには残されていないように見える。p.176

結局、被災地が復興していない現状。長田区などの被害の中心では震災後に低下した人口が結局回復していない。これが、既存のスクラップ・アンド・ビルド的な復興計画の手法の限界を示している。

イギリス人は日本人と同じように接地型住居志向で、市街住宅として低層住宅が長年支持されている。p.199

ヨーロッパの都市といえば、高層住宅と思っていただけに、ちょっと驚いた。そして、低層住宅が政策として維持されている現状に勇気を感じる。