胡桃沢勘司『西日本庶民交易史の研究』時間切れ

西日本庶民交易史の研究

西日本庶民交易史の研究

 返却期限が迫っているが、半分程度しか読み終わらなそうなので、現時点の読了分までメモ。
 魚類の行商など局地的な交易を、経験者への聞き書きをもとに、明らかにしようとしている。500ページ超えの分厚い本だが、多数のインタビューが収録されていて、それだけでも価値がある。しかし、ほんの半世紀ほど前までは、冷蔵の手段もなく、魚はこのような形で流通していたわけだ。全く別世界のようで感慨深い。
 熊本でも、戦後すぐまでは、生の魚を食べる機会はほとんどなかったこと。熊本市へは、鮮魚が搬入されていたが、菊池や城南では、鮮魚はほとんどなかったと聞く。このあたりの魚の流通と「中心地」の問題は、考える価値があるかも。
 本書で取り上げている、交通史についてはほとんど知識がないので、序章の部分はパス。とりあえず、第二編の途中まで読み終わっているが、興味をひかれた部分だけメモ。全体的に、丁寧にメモを取りながら読む価値がある。


第一編第一章「交易の成立(若狭)」

わが国の歴史研究の対象が農業―特に稲作―に偏っているのを批判し、農業以外の産業を産業をもっと汲み上げるべきだとの主張の旗頭は網野氏である。(中略)今回の検討により明確にされた農民とウラベの「力関係の相違」という事実は、やはり重いと考えざるを得ない。農業と他の職は言わば紐で繋がれ、どう動くかはその紐を通じ農民側がコントロールする仕組みになっていたことが、ここには示されていると言えるのではないだろうか。性急だとは思うが…(p.94)

この部分は、本人も自覚しているように、少々性急ではないかと思う。決済の時期についての農民側のイニシアチブは、収穫という自然のリズムがやはり重要なのではないか。また、魚の腐りやすいという性質も、交渉力に関連してくるだろう。まずは、その点を重視すべきなのではないか。また、決済が白米と屑米でなされたことも興味深い。これは、単純に食料獲得の行動ではないことを示しているのではないか。屑米は当然食料として消費されたであろうが、白米が時代を遡れば税として上納されていたのではないか。また、コメは貨幣的な利用も考えられるのではないか。そう考えていくと、現金決済に移行しなかったのかという問題が出てくるが…

白水氏は「浦百姓の生活を支える交易は領主には関心外のことであり、こうした生業への賦課が行なわれた様子はない。だから、史料上に書き残されることは少ない。」からだと指摘する。(p.88)

とあるが、この交易で獲得されたコメが、領主への上納に使われたわけで、間接的には領主も充分関係があったと思うのだが…


また、行商を行なう商人と農村の得意先の関係も興味深い。このような「得意先」関係は、ヨーロッパでも普遍的に見られる。『ヴァイキングの経済学』(ISBN:4634491303)の事例や『ヨーロッパ覇権以前』(ISBN:4000023934)でシャンパーニュの大市の例が指摘されている。未読だが、パイヤーの『異人歓待の歴史』(ISBN:4938551349)などもあり、少々興味はある。また、東南アジアでも、海民と農民の交易に付随した固定的な社会関係は存在するようで、そのあたりとの関係で考えてみたい。(ググっていて見つけたサイト:異人・贈与・歓待
 また、局地的な商圏(行商の得意先)と最初から広域市場に出す高級魚、そして「補助的存在」として売れ残った場合に訪れる広域商業圏への結節的集落、という三重の流通構造もおもしろい。


 第二編第二章

単に道のみが近代化されても、運搬手段が整備されないうちは、その機能を庶民レベルまで押し広げて十分生かすことは出来ない、ということだ。加うるに、その近代化も街道レベルの道のみになされることが多く、所謂村の道は旧態依然としていたのである。これでは、車を導入しても、行商にとって最も肝心な毛細血管の所で使うことが出来ない。新道を行くという発想が出てこないのは、言わば当然なのである。すなわち、この例に見る限り、「近代化」が庶民のために行なわれていたものではないことが見て取れる。「恩恵」は末端まで行き渡らないのである。新道を横目で見ながら旧道を行ったのは、これに対する庶民のささやかな抵抗と言えるのかもしれない。そして、この構造的とも言える体質は、多分今もさほど改善されてはいないのである。(p.268)

 とすると、ここに一つの問題が浮かび上がってくる。よく指摘されることであるが、民俗学がその調査・研究の主たる対象地としてきたのは農村である。その理由は、稲作文化=日本文化との解釈に基づくとされてきたのだが、他の所が軽く見られた所以を山村に限って言えば、母体そのものがこの学問の成長期において、既にかなり崩壊していたからだということも併せて考えられるのではなかろうか。皆ノ瀬同様の運命が課された山村は、全国でかなりの数に上るはずであり、筆者もいくつかその厳しい現実を見せつけられてきているのである。それは、近代化の過程において、「御用済」の烙印を押されたことを示していると言って良い。そして、留意しなければならないのは、これが単に権力の仕業とは決められないのではないか、ということだ。神島二郎は、「人量り田」の伝承に基づき、ムラ共同体のなかに「きりすて」の論理が存在することを指摘しているが、この場合正にこれが適用されたと思われるからである。神島は、近代にこれが拡張されたとも述べている。かつて指摘したとおり、農村は決して自己完結的なものではなく、言わば山村に依りかかるような場面も見られたのだ。その存在が、相当程度必要とされた時期があったのである。それが、状況が変った途端、「自己の保存」だけが平気で全面に押し出されてくる。すなわち、山村は「トカゲのシッポ」のように切り捨てられることとなってしまうのである。正に神島の言うとおり、外から破壊されるのではないが、内から崩れていくよう仕向けられるのであって、その仕組みは誠に巧妙と言う他は無い。重要なのは、この巧妙さによって母体を維持した所が、結果として民俗学研究の中心に据えられることとなった、という事である。この事実に、民俗学徒の多くは、多分今も気が付いていない。しかし、研究の対象としやすい所が、半ば無意識であるにせよあるいはかつて冷酷なまでの合理化を内外共に行なって今に続いているのかもしれない、という事は、「経世済民」の学を手がける者として心得ておくべきではなかろうか。この心構えが持てないと、民俗学自体が何れ「きりすて」られるのではないか、と案じられてならない。交通機能を主とした所を中心に歩く筆者の目には、「きりすて」の論理がかつてのそれと同じ形で今も繰り返されているように映るからであって、この現実が民俗学界に広く認識されるようになるのを願わずにはいられないのである。(p.269-270)

印象的な記述。

酒井紀美氏によれば中世以前は公式の情報伝達システムは皆無に等しい…(p.313)

→「「物事」について」『日本歴史』539号 1993