なぜ経済学を信用しないか

 私はダンコーガイやfromdusktildawn氏のブログを普段は見ない。あるいは、竹中平蔵に代表される経済学者を信用していない。彼らの言論には、ゲンナリする。このあたりのゲンナリ感の背景には、彼らの一元的世界観についていけないというのがある。
 経済学を思想的背景とする人間は、「生産性」「効率性」といった概念を強調する。確かに、経済的効率性は、人間社会を律する原理の一つであり、あまり経済的合理性を超えて無茶することはできない。しかし、今どきの主流経済学は「市場で効率的に財が分配されれば、みんなが幸せになれる」的な、「効率」を根本的な原理とした主張を展開し、実際に影響力を行使してその方向に社会を持っていこうとする。それは「効率」「生産性」を神とする、一神教のようだ。かつて、科学が神の御技を理解し、世界をより良くすると解されていたことを思い起こさせる。その科学は、最終的に世界は「目的がない」ということを明らかにしたのだが。
 むしろ生物の進化の流れや人間の歴史を少しかじると、「効率化」あるいは「最適化」というものは、逆に環境の変化に対して脆弱になるということを知るだろう。余分がないというのは、変化への対応能力も低下させる。例えば、ある種の花と蝶は、互いに蝶は特定の花からしか蜜を吸えないように進化し、逆に花はその蝶を通じてしか受粉できないように進化している。これは、特定の環境への最適化の一つだ。しかし、これはどちらかの種が絶滅ないし衰退すれば、もう片方も道ずれとなるということを意味する。また、人間社会において「効率」を極めた例としては、日本の自動車産業があげられる。トヨタを初めとする日本の自動車産業にはジャストインタイム方式という極力部品在庫を減らす方式をが普及している。確かに、これは平常では非常に効率がいい。しかし、何らかの変動、自然災害などで重要な部品工場は一つ操業を停止するだけで、生産が止まってしまう。この前の中越沖地震では、リケンの工場が操業の停止を余儀なくされ、それに巻き込まれて日本全体の自動車産業が生産の停止を余儀なくされた。幸い比較的短時間で復旧できたので経済全体に影響が及ぶことはなかったが、各自動車メーカーが大挙して人員を送り込むなど大騒ぎになったことは記憶に新しい。この手の民間工場は、基本的に警備が厳重とは言いがたい。しかし、ここに破壊工作員を送り込んで長期間操業を停止させるような被害を出させれば、それだけで日本の国民経済全体に結構大きなダメージを与えることができる。ふと、テロリストちっくなことが頭に浮かんだが、これって結構怖いことだと思いませんか?
 あるいは、よく報道される「労働生産性の国際比較」。あれの上位には、北欧諸国やスイス、アイルランドなど小規模で、比較的粒が揃った国が上位に来る。しかし、国際社会全体で考えたときに、労働生産性が低下したと騒がれ、かつ国際的な影響力の構築に消極的な日本と比べても、影響力はどちらが大きいのだろうか。「生産性」が高いことが、必ずしも力につながらない。数や多様性などの厚みこそが、その集団全体にとって重要なのではないか。だいたいアメリカの力の源泉にしても、「生産性」なんてごく一部に過ぎないではないか。


 そもそも経済学が、その発生以後どのように使われてきたか、どのような人々の道具であったかについて、すこしでも知識があれば、経済学を全面的に信用する気にはなれない。例えば、19世紀に経済学や「自助努力」に関して、どのような人々がそれを主張してきたのか。中産階級の新興資本家である。彼等は、新たに富を得、もともと社会を牛耳っていたエスタブリッシュメントに割り込むイデオロギーとして、これを利用した。また、金持ちが自己の富を拡大するために、経済学を利用してきたことはアメリカの1980年代以降の歴史を見ても明瞭だろう。
 まあ、歴史学なんかも、新しいところでは「国民国家」のイデオロギーに利用されたり、中華王朝に奉仕したり、いろいろと過去があるのだが。しかし、それだけではなく、弱者を含め、いろいろな利用ができる厚みがある。


 経済学に違和感を感じる理由としては、ヨーロッパの学問的伝統とアメリカの伝統の違いも大きな要因かもしれない。アメリカの社会科学を見るに、「実学」への傾斜、何に役立つかを重視する傾向が強い。悪く言えば、アメリカの社会科学はあくまでも「技術」であって、「学問」ではないとも言える。
 ジェームズ・A. スミス著の『アメリカのシンクタンク』(ISBN:4478180075)を読むと、アメリカの社会科学が、いかに実際の必要、福祉・慈善活動の効果測定や社会改良の判断材料、に応じて発展してきたかが分かる。例えば、政治学でも、政治過程の数量的分析などが行なわれているが、結局政治家の選挙対策に使われていたりする。
 このあたりが、ヨーロッパの中近世をかじった人間には違和感を感じるのかもしれない。私自身はヨーロッパに留学に行ったことはないが、教えを受けた大学の先生は、たいていヨーロッパに留学した人ばかりで、アメリカに留学した先生との関わりはほとんどなかった。経済学者では橘木俊詔氏あたりの議論は納得できるものを感じる。これは橘木氏がヨーロッパでも勉強をしていることとも関係あるのかもしれない。アメリカ系の経済学の影響を受けている人に「セカイ系」なんてどっかのブログで揶揄されているのを見たことがある(どこだったか忘れた)が、これも背景とする学問的伝統の違いの問題なのかもしれない。