吉國恒雄『グレートジンバブウェ:東南アフリカの歴史世界』

グレートジンバブウェ―東南アフリカの歴史世界 (講談社現代新書)

グレートジンバブウェ―東南アフリカの歴史世界 (講談社現代新書)

 東南アフリカ地域の通史。題名の通りグレートジンバブウェが記述の中心だが、その前後も西暦1900年あたりまできっちり記述されている。
 最初にこの地域の基本的性格として、人類の生活、特に農耕、に厳しい自然環境。さらに各種の疫病の存在。それに伴い人口希薄で、かつ分散化し、流動性の高い社会が形成されたことが指摘される。この人の流動性が高いという問題は、近代の国民国家システムに対する適応性という点で重要であろう。近代の国民国家/資本主義システムは、基本的に集団主義的かつ定住的な社会で形成された。ヨーロッパの法人格を持つ「村落共同体」という存在は、世界的にあまり見ない。この差が、国民国家の形成の鍵なのだろう。日本でも基本的にはヨーロッパに近いシステムを持っていた。
 続いて2章をつかって「グレートジンバブウェ国」の国家の性格とジンバブウェを巡る言説の歴史、続いてその後継国家群の展開。1700年以降の小規模国家群への性格の変化について整理される。大規模な国家の形成へのインド洋貿易の重要性。金と象牙の輸出を掌握し、その対価としての奢侈品(布など)を分配することが、大規模な国家統合の基本であった。このインド洋貿易が衰退する17世紀以降、大規模な国家は影を潜め、小規模な社会への変化がおきる。


ところでこの一節、

白人大農業が、政府の厚い庇護を受けて成長し、ローデシア農業の主役となり、平野部はことごとく彼らによって占拠された。一方、政府は「原住民保留地」政策を打ち出し、アフリカ人農民を彼らの「伝統的なすみか」である山地に封じ込め、すでに「白人地区」に居たものもそこへ追放した。
 保留地が過密と貧困の地になるまでにさして時間はかからなかった。一九〇〇年から独立年の一九八〇年までの八〇年間、アフリカ人の人口は一〇倍増加して(一九八〇年七〇〇万強)、同時に土地の半分が白人の所有になった。単純に計算すると、農村の人口はこの間にじつに二〇倍も稠密になったことになる。産業化はアフリカ農村に、過疎ではなく、過密をもたらしたのである。危機を感じた植民地当局は、一九三〇年代から土地利用の効率化などを試みるが、農民の不信と反発を買ったこと以外、ほとんど効果をあげえなかった。一九五〇年代には民衆から土地奪還の声が上がり、そして以後、この要求がアフリカ人政治の焦点になった。p.198-9

こうしてみると、現在のジンバブウェの「崩壊」は過去の動きの続きに過ぎないとも言える。少なくとも植民地統治の歪みに対する揺り戻しの動きだろう。まあ、もう少しやり方があったと思うが。
野生動物の狩猟と生産性の低い農業の組み合わせは、「伝統」的な方法への回帰とも言える。