構造的な人権侵害について

差別が人権侵害でない?
人間世界のなにが難しいと言えば、「正義の行い」がいつの間にか「悪の所業」になってしまっていることだと思う。差別問題も同様の側面がある。
差別を是正するための活動が、いつの間にか暴走して他の抑圧を生んでしまうことがある。「構造的な人権侵害」というのが問題視されるのは、それを適用できる範囲が広すぎるのが問題ではないだろうか。例えば、極端に走れば、少女漫画やテレビのイケメンは容姿に不自由な男性への差別だから禁止すべきという議論(フェミニズムのミスコン反対はそういうことだよね)とか、太った人間への差別だからダイエット本は発禁、テレビ番組は放送禁止みたいな論法に拡大することもできる。ついでに言えば、そのような表現の自由の制限を他の政治的目的に利用することもできる。
id:seijigakutoさんが紹介するような、法学の抑え目の解釈はそれを防ぐための知恵でもあるのだろう。「人権というコトバは、法の枠内におさめることのできるコトバでは」ないからこそ、法はそれを押さえにまわる。他の人権や自由といったものとの調整が必要だから。
どうしても、総論賛成各論反対というか、細かい部分で見解の相違が出てしまう。


ことフィクションに関して言えば、人権侵害を理由に制限をかけるのは、相当慎重でなければならないと思う。フィクションは別腹と言うべきか。日米欧同じように殺人を扱ったフィクションがあふれているにもかかわらず、実際に行なわれる殺人行為にはずいぶん違いがある。むしろ社会の中での人間関係のあり方や社会内で共有される思想と言ったものの重要性が高いように思える。そのような思想はフィクションに影響を与え、それが逆に実社会に影響を与えると言った相互作用はあるだろう。しかし、直裁に影響を与えるノンフィクション、政治的な言論のほうが与える影響は段違いに大きい。それを考えると、「暴力ゲーム規制」とかに血道をあげている状況はずいぶんリソースの無駄だなと。あと、フィクションを規制しても、人間が行なってきた事実を抹殺しなければ、そちらに流れればいいだけだし、それを消そうとすれば今度は歴史改変で、それはそれで大問題。
あとは、フィクションがたいがい「表の正業」であることも重要なのではないか。例えば人身売買やスナッフムービー、実写の児童ポルノなどは、非合法な資金源になりやすい。そう考えると、表のものであるフィクションはゆるめに、裏の問題にリソースを割くほうが実際の人権侵害には、効率的だとも思える。
先日のぶ米に(例えば監禁モノの)フィクションの消費に「監禁王子」的な目線が潜んでいると指摘があった(もう消えているが)。しかし、割とそっち系統のフィクションを消費する身として、そうかなあ?と思う。なくもないが、フィクションと実際の行動には、どこまでも深い谷があるように思う。実際の倫理と刑罰の壁は相当に高い。それを乗り越えてしまう暴力衝動を抑制できない人間というのは、むしろフィクションを消費しない人間なのではないか。


素朴につらつらと書いたが、なんというか差別とか表現規制の問題は奥が深い。法やフェミニズム、表現論その他もろもろについての知識が必要なのを痛感した。ポルノの問題については、勉強したいのだが、私の中での優先順位が低すぎてなかなか時間を割けない。
修行して出直してきます。