リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦:湾岸戦争』

現代の航空戦 湾岸戦争

現代の航空戦 湾岸戦争

 一言で表現するなら「空軍の神話」。
 我々は、いかにしてベトナム戦争の荒廃から立ち直り、湾岸戦争を勝利に導いたかを高らかに謳いあげた作品。中の人が中の人に向けて書いたような書物。空軍中心主義史観と幼稚な国際認識に辟易する。史観の明晰さでノルディーンの『現代の航空戦』(ISBN:4562038691)の方がよく出来ている。
 原著の出版が1992年のため、いろいろと分析が進んでいない状況もあったのだろうが、戦果を過大評価している可能性あり。どこまで信用していいのか分からない。空軍のドクトリンの発展の流れや、アメリカ空軍の湾岸戦争での構想は多分信頼できると思うが…


 軍事系の本では良くあることながら、注を省いているのが大減点。特に、このような「政治的な」書物では、どのような資料を参照したかが分からなければ、情報源としてほとんど使い物にならない。


以下、メモ:

世界じゅうで左翼活動とイスラム原理主義運動が勢いを盛り返し、アフガニスタンアンゴラ、イラン、モザンビークニカラグアエルサルバドルグレナダ等で騒動が起きて、米国が全体主義の動きによって裏切られ続け、同時に共産主義の脅威が増大しているかに見えた時期であったから、… p.102

こんな感じの表現が次々と出てくる。アメリカの方が世界を裏切っていたと言っても良いと思うがね… 南米で独裁政権を支援したのはどこの国か。死の部隊の訓練はだれが行なったのか。

 海外派兵すべきか否かを判断するための六項目、いわゆるワインバーガー・ドクトリンの原案が出来たのは1984年11月で、これはワインバーガーの慎重さとベイルート爆撃の苦い教訓の所産である。

  1. 米国の死活的国益がかかっているか
  2. 相当の軍隊を投入して勝たねばならないほど重要な問題か
  3. 政治目的と軍事行動の目的は明確か
  4. 軍隊の規模は目的達成にかなった大きさか
  5. 米国民の支持が得られているか
  6. 軍事行動が最後の手段なのか

これが、その六項目である。 p.108

軍人と文官の間に軍事行動に踏み切るべきか否かで、意見の相違があり、率直な話し合いにより大小の相違点を細かく検討してコンセンサスを得たことには触れておかなければならない。国家の政治的行動にはコンセンサスが不可欠であるが、それは思考を省略して「なあ、なあ」で決めてはならず、さまざまな意見を受け入れて広い視野に立って検討し作るべきものである。米国首脳陣はまさに、これを行なったのであり、体制を整備し国家的決断にいたる手順を明確にしておいた成果が、ここに見られたのである。 p.160

なんというか、湾岸戦争イラク戦争でこのあたりは正反対なのが笑えると言うか。
イラク戦争では、内部でのコンセンサスの形成にも失敗して、強硬派が暴走。最終的には、戦後統治に失敗して大やけどを負ったわけだが。本書の著者がその局面でどんな言動をしたのやら。しかし、イラク戦争の失敗後の今の時点から振り返ると非常に含蓄がある。湾岸戦争で示された軍事技術の輝きに幻惑された結果、後始末をないがしろにしたイラク戦争に踏み込んだ。まさに禍福は糾える縄の如し。
孫子の兵法に「天の時、地の利、人の和」というのがあるが、イラク戦争では天の時、人の和を欠いたのが敗因だったように思う。その点では、湾岸戦争はよく政治的に調整されていた。イラクの侵略に対抗すると言う大義名分がはっきりとしていたのもあるのだろうが。

イラク軍はエル・アラメインの戦いやクルスクの戦いのような大戦車戦で敗北したのではなかった。湾岸戦争には、そのような決定的な地上戦闘はなかった。 p.281

筆が滑りすぎのような。航空戦力が決定的だったのは確かだが、過大評価するのも問題だろう。それなりの規模の戦車戦があったわけだし。

湾岸戦争の終末期、イラクは1945年の日本やドイツ以上に周辺諸国に脅威を及ぼす能力を失ってはいたが、バグダッドの町は健在であった。バグダッド市民で直接、戦争により死傷した者はほとんどいない。人命重視の結果である。これが可能になったのは、皮肉なことに、前記のフラーが1945年に述べた到達距離、攻撃能力、照準の精密度、破壊力、兵器運搬の容易性という兵器の五つの性格が、変化したためなのであった。
 たとえば、フラーのいう照準の精密度は大いに向上し、湾岸戦争は昔に比べて大いに人道的な戦争になり、国際的合意に基づいて航空戦力を運用するのが昔はうまく行かなかったのに、今回はうまくいったのである。 p.320

うーん? 確かに命中精度の向上は、人口密集地への爆撃の必要をなくし、「付随的被害」を起こさなくするのに寄与したのは確かだろう。しかし、単純に湾岸戦争では民間人を攻撃する必要がなかったと言うだけに過ぎない。その点で、第二次大戦とは話が違うのでは。
イラク戦争では、ファルージャのような事例もあるわけだし。