香月洋一郎『景観のなかの暮らし:生産領域の民俗』

景観のなかの暮らし―生産領域の民俗

景観のなかの暮らし―生産領域の民俗

 田畑の水利や区割りの現地調査から、過去の開発の積み重ねや定住の歴史をあぶりだしている。実地に歩いて、手間をかけた調査によって、景観に残された手がかりがあぶりだされていくのが興味深い。非常におもしろい本。目次を見ても、内容の想像がつかないというのは久しぶりの経験。進むたびに出会いがあって非常に楽しかった。
 あえて問題点をあげるとするならば、やはり「水田」に視点が偏ってしまっていることか。こればっかりは、地形に情報を残しているのが、やはり水田であるという資料的制約によって仕方がない部分ではあるのだが。逆に言えば、いかに「水田稲作」というのが、社会の関心事であったかを表しているとも言える。「米渇望社会」の証左というか。
 あと、本書では、明治前期の地籍図と現地での聞き取り調査が主な資料であり、復元できるのはせいぜい近世末から近代の頭あたりの時代であるということも興味深い。水利のシステムから、中国山地周辺では「谷水懸かり・あぜ越し用水」から「用水路・個別に水路」という形での変化を指摘している。これは、近世の米の全国市場の出現による変化を反映しているのかもしれないなと思った。というのも、熊本では近世の後半期に、山間地域での用水路の開削(代表的なのが通潤橋)や海岸の干拓が盛んに行なわれた。どこかの講演で吉村豊雄氏が、この動きを大阪を中心とする米市場との接続との関連していると指摘したのを聞いたことがある。同様に、中国山地でも米の販売可能性があがったことが、新しい水利システムの導入の呼び水になったのかなと思った。堰を築いて、水路を引き、それを維持し続けると言うのは、相当なコストがかかるはずで、それと釣り合うくらいの需要の増大があったのだろうなと想像する。
 本書の元となった調査はおおよそ1970年代あたりに行なわれたようだが、まさにその時期が日本の伝統的な景観が「生きていた」最後の時期なのだろうなと思った。その意味では、最後のチャンスだったというべきか。あとがきの「水路調査を行なったむらの水田の多くが、基盤整備などにより形状が一変していて、水路図を整えながら、かつての水田の供養を行なっているような気分になったものである」の一文が変化の激しさを物語る。
 しかし、この読書ノートを書くためにパラパラとめくると、どこをとってもおもしろい。また読み返したくなる魅力にあふれている。まさに、現地を歩いたことが力になっていると言うか。掲載されている多数の写真も魅力的。
以下、メモ:

 ひとつは、景観の維持とは、そこに住みつづけようという意思なしにはあり得ないこと、もうひとつは、自治とは元来自前であるということです。おのおのが金銭にせよ労力にしろ、自腹を切りあって何事かをなすからこそ、そこにルールができてゆきます。「橋梁既に朽ちたり」と描かれているこの橋を使うのはほとんど村の人々であり、その維持や修繕は村人が行なっていたことが行間から読み取れると思います。自分たちで使うものは自分たちでつくり世話をする、このことと地域の自治とは切り離せないものでしょう。そうしてその世話ができなくなってしまったということは、ほかならぬ自分たちがばらばらになってしまったことを意味しています。
 自分の田の底土が傷つき水もれが激しくなれば、それは決してひとり自分の田だけの問題ではない。その周囲の田への水がかりが悪くなるかもしれない。自分の山の下草刈りを怠れば、下ばえは隣の山へ侵入するかもしれない。そうしたことは、そこに住みつづけてゆこうとする限り放っておくわけにはいかないことです。
 ですから、人の手が加わった景観からは、人々が群れ集まり、これまで住みつづけ、これからも住みつづけようとする集団としての意思が読みとれるのではないかと思います。
p.11-12

 一番感銘をうけた一節。「地域自治とは自分たちで使うものは自分たちでつくり世話すること」というのは、まさに「自治」の要諦だと思った。そして、現代社会ではそれが不可能になりつつあることも、また確かなのだが。いろいろと巨大になりすぎたというか。
 あと、「集団としての意思」というのも、応用範囲が広そうだなと思う。

 生産領域を受け継ぎ先祖の供養も受け継ぎ、暮らしのたてかた自体は、人が変っても踏襲されていきます。ですから人が変り代が変っても、開拓当初の住み方は原型として受け継がれてゆくことになります。
 逆に見れば、受け継がれてゆく景観の裏側で、むらは、見かけよりもはるかに激しく動いていたといえます。村落景観の見かけのおだやかさ、のどかさは、その激しい動きによって支えられ受け継がれてきたことになります。
p.55

人の動きと景観の継続。他へ出て行く人がいる一方、その生産基盤・社会儀礼関係をそのまま受け継いで別の家系が入ってくる。由来がよく分からない墓が存在するというのが興味深い。

 ひとつひとつの谷川自体はおのおの独立した水源であり、それぞれひとまとまりの利水単位だったのですが、こうなると、水路が走り抜ける谷々の協力なしには、水路の維持はできなくなり、水を通じての人のつながりは、広くもなり、こみいったものにもなってゆきます。また逆に、人々のつながりが広がってゆく素地がなければ、こうした広域にわたる水利施設は造り得ず、そこには統合されたひとつの意思、あるいはひとつの意思への期待が必要です。別の表現を使えば、その地域を安定させる政治勢力の出現ということになるのでしょう。
p.57

谷筋単位の水利から、複数の谷を貫く水路の出現。確かに、その水路が潤す地域全体で調整ができるだけの権力を備えた集団が必要だろうな。政治集団が先か、水路が先か。いつの時代か。

 そうした話をこの地の言葉でシホウバナシといいますが、シホウバナシがでると、その家の置いてゆかれる家財は競売にかけられ、むらの人たちは、おのおのの力の範囲で少しでも高く買って引き取ります。そうしてなごりを惜しみつつ途中まで見おくり、その後の整理は近くの親類筋の人などがあたります。墓地はそのまま残ります。出ていった人はしばらくの間は三年おき、五年おきくらいに盆の墓参に戻ってきますが、それも次第に足が遠のき、やがて墓地の素性も忘れられてゆきます。
 (中略)
 それでも暮らせる人数には限りがあります。
 この養えぬ人を外に出す力、ここにも私はむらの意志というものを感じました。ムラという言葉の語源は、「群れる」という表現に求められるそうですが、人が集まり群れて暮らしつづけると、一人一人の意思を越えたところに群れの意思というものがあらわれ、その群れ自体を守るために働きます。それはそこに共に暮らす一人一人の意思とつながらぬものではないけれど、単に一人一人の意思の集合ではなく、時によっては大多数の一人一人の意思に反して、ということもあり得ます。
p.90-91

山間の集落が、同じ戸数を維持してきたと言う話。ある程度以上に増えると、潰れて出て行く家が出る。
この部分は結構含蓄のある話だと思う。全体の最適解と個人個人の最適解の違い。あるいは個人の正義と全体の正義が違うと言う話。

むらの若さ
 国立市農村部で、昔、横浜に飛び出して商売を始め横浜市街地の大地主となった人の話や、山梨県石和温泉東八代郡)に土地を得、旅館を経営している人の話を聞きました。後者の話の主人公は、私が国立市のむらを歩き始めた頃も健在で、毎朝隣の立川市まで甲州街道をゾウリばきでリヤカーを引いて野菜を売りに行くおじいさんでした。国立にいる時はそこで昔からの自分の仕事をくりかえしているからこそ、ここの人々の目が外へと向かっていったのではないだろうかと思えてきます。むらうちで互いに他を侵さず他に侵されず、同じように暮らしが続いていくという状態の背後には、さまざまな形のエネルギーが激しく動いています。そうしたエネルギーの総体が、「むら」という名で括られた人間の定住行為ということになるのでしょうが、ここではそのエネルギーが外へと向かっていった例を見たことになります。
 一見以前と変らない景観を保ちつづけているその風貌の裏で人は激しく動いてきました。いやその動きがあったからこそ、むらの風貌が維持されてきたことになります。この武蔵野の景観はそのことを生硬なほど直裁に語ってくれているようです。
 私がここで武蔵野のむらに生硬さ、言い換えれば未成熟さを感じるのは、この問題を考える時、常に近江平野の事例を引きあいに出して語ってくれた宮本先生の次のような言葉が忘れられないからです。実はこの言葉を、私は自分の書いたもののなかでいく度となく紹介しています。それは私にとって景観を考える時のひとつの座標軸になる発想であり、また常にそこにたちもどり考えを検討する、いわばスターティング・オーバーの場――自分を確認する起点――としての意味をもっているからです。
「わしゃ滋賀県は日本で一番おもしろい県と思うとるんじゃ。むらが続いていくとはどういうことか、むらの景色の中にそのまま典型としてあらわれとる。まわりには条里田が広がっとるじゃろ。あの条里集落の人々は、――全部が全部とは言わんが――千年やそこらはその条里田をつくりつづけて生きてきた。宮の杜でそれとわかる氏神様に行ってみると式内社が多い。
 集落の中に入って歩いてみると、どれもが似たような規模の家でね。これは住まい方の思想の中に主従関係でないものが古い時代から下敷きとしてあったんじゃろうね。そのなかでひときわ多きな屋根は、大体真宗寺院じゃ。それも寺の中に入ってみると、その寺院の開基よりも古いと思われる五輪塔や宝篋印塔があるわね。真宗になる前は禅宗とか真言宗の寺としての歴史をもっとったんだろうね。
 そいでここらのむらは、農業以外のさまざまな稼ぎをやっとるわね。その稼ぎのあり方はむらによって違うし、単なる副業とは考えられないくらい大きなものもある。そのことがこの地域のむらを、むらとして支えてきた大きな力になっていると思うし、それがまた京都を支えていく力にもいながっているんじゃなかろうか。」


日ニ日ニ継ゲドモ
 人の集団が、定住を前提としたむらという形で住みつづけていくことで、そのなかにどのような時代性の堆積をかかえこみ、永続のためにどのような知恵を積み重ねてきたのか。この問題を考えようとする時、武蔵野のむらは、その歴史が若いままに都市化の時代を迎えたように思います。
 定住とは、そうした時代性の堆積であり、その堆積の成熟化であり、そのことを通して受け継がれていく知恵の試行的な展開といえると思います。そこに構成者の個々の意思を越えた集団意思としてのむらが存在しているのでしょうし、しばしば指摘されてきたむら社会の「保守性」もそのことと通じているのでしょう。
 日ニ日ニ継ゲドモ同ジカラズ、そんな表現が記されているフランスの村落景観のポストカードをどこかで見かけたことがあります。落ち着いたむらのたたずまいをみると、よくこの言葉を思い出します。
 5章でふれたことをここでまたくりかえしてしまいました。むらの秩序や落ち着きとは、むらの激しい動きの別の顔であるということを。
p.153-157

ここも感銘をうけた箇所。この議論を発展させる方向にも、否定する方向にも、考えが広がる。
武蔵野の農村地域の急速な都市化が、その地域の共同体・共同的所有の弱さの反映ではないかという指摘。2009年と言う現時点から見れば、どこも同じように定住地の消滅が進んでいるわけで、単純な立地の差ではないかと言う気もしなくはない。
歴史人口学的な視点から考えてみるのも興味深いかもしれない。関東地域は江戸の「都市墓場効果」で人口が減少した地域であることや成立年代を考えると、武蔵野の新田村落は外の存在を前提に形成された村ということも出来ると思う。プロト工業化の時代的な、市場対応型の村落。村人にしても、奉公などのかたちで村を出て行くことを前提に形成されたのではないか。それが、都市化に極めて脆いのは当然なのかもしれない。

 中央線の車窓から東京の西の郊外の景観をみると、甍の波を越すほどの木々の茂りが残っているのは、公園、寺社や大学などです。それ以外で木々の茂りが目立つところに行ってみれば屋敷林を残した家があり、その一画の家々の表札はみな同じ姓であり、あきらかに本分家でよりそって暮らしてきたかつての農家であることがわかります。景観をぬりかえてゆく宅地群の攻勢のなかで一部の公有地、共有地――およびこの二者に準ずる公共有的性格の土地――、それにかつての農家の屋敷林が、かろうじて昔からの木々を残す砦のように点在しています。そのなかで武蔵野は共有地の占める割合がきわめて低かったように思います。
p.165


関東地方には丘陵地が多い。その低地部は水田として拓かれた。いわゆる谷田であろう。そこに盛土をして住宅が増えていく。谷田に宅地が侵入していく。私の友人はこれを「宅地化の水虫現象」と呼んだ。きたねえなァと思ったが、たとえとしてははずれていない。
p.167

写真の解説から。うけた。熊本市の東部でも見かける光景。
別にそういうところに住み着く分には構わないが、低湿地に住んだあげく、水につかるから河川改修してくれとか言って、対戦車濠みたいな川を作り出すのは納得できない。
今後、ああいう谷の低湿地を宅地化した土地を「水虫住宅地」と呼ぶか。

 本書の前半で述べた「名田」的な住みつきかたの家々が点在する山すそを一気につきぬけて走る新幹線――その存在が都会人の中にごく自然な交通機関として根づいてゆこうとも――の高架は、明らかに周囲の景観と違和感をもって存在しています(たとえば写真142)。「あれは暴力じゃないのか」、それを見たとき、私は素直にそう思いました。けれども島々を巡る船のなかで、そうした人工物をその違和感を放つ故に、最初のよりどころとして島を見ている己の感覚の粗さにがっかりしたものです。結局は自分はその立場――つきぬけて走る新幹線の側――でしかない、と。
p.212

インフラ整備、あるいは近代的な「開発」の暴力性。
今現在、九州新幹線の工事による破壊が、まさにそんな感じ。まさに「暴力」としか言いようのない。しかも、そのような破壊を正当化するほどの利便性があるのかというところからして、疑問だしな…
この暴力性という点では、宅地開発もマンション建設も道路工事も河川改修もかわりない。その土地に積み重ねられてきた記憶、景観もろもろをあっさりと踏み潰して、塗り替えてしまう。その土地の文脈も無視して。だから、私は基本的にマンション開発が嫌い。




著者のインタビューがあったのでメモ。
山村のくらしを見つめる
→『山に棲む』は確かにおもしろそう。

山に棲む―民俗誌序章

山に棲む―民俗誌序章