山本紀夫『ジャガイモとインカ帝国:文明を生んだ植物』

ジャガイモとインカ帝国―文明を生んだ植物

ジャガイモとインカ帝国―文明を生んだ植物

 インカ帝国へとつながる中央アンデス文明の基盤となった食料源を追求した書物。著者は、農学部卒で、民族学に転向した人物。京都大学探検部が派遣した南米調査隊から、アンデスのジャガイモ栽培を研究し始めたそうだ。やはり栽培植物の研究に関しては、植物学的な訓練をうけた人は安心感がある。また、この分野における京都大学の影響力も感じる。
 本書では、中央アンデスの文明の基盤が、トウモロコシではなくジャガイモにあったと指摘している。狩猟採集の時代から長期間かけてジャガイモが栽培化されたこと。また、これにはリャマやアルパカといったラクダ科の生物の家畜化と並行して進行し、複合的な生業が発展したこと。また、有毒の野性イモ類を食用にするに際して、凍結乾燥させるチューニョなどの毒抜き技術が重要であったと主張。前半は考古学、歴史学民族学の知見を元に、ジャガイモ栽培と文明の展開を論じる。インカ帝国が拡大する15世紀まで、トウモロコシの影が比較的薄いこと。低地ではトウモロコシの栽培が拡大するが、山岳地域ではジャガイモが主要な食物であったこと。インカ帝国の時代に至って、階段耕地によるトウモロコシ栽培の拡大が見られるが、トウモロコシは儀礼的に重要なものであっても、一般住民の主食としてはジャガイモの重要性が高かったとする。
 後半は著者のフィールドワークに基づく、アンデスの高地住民の農牧業の特色を紹介している。アンデスの高地では、斜面の高度差を活かした生産活動が行なわれていること。高度4000メートル近い場所では牧畜、3000メートルより上ではジャガイモ、それ以下2000メートルあたりまではトウモロコシの耕作が行なわれていること。高度差の利用、多数の品種の栽培、輪作といった技術によって、寒冷地でも安定した生産が可能になっていることを紹介している。また、食生活の観察から、ジャガイモと少量の肉が食生活の主体であること。トウモロコシが儀礼で重要であることが指摘される。
以下、メモ:

 一方で、イモ類は人間が利用できる部分を地下につけるので、その発見は穀類ほどに容易ではないことも考えられるであろう。しかし、人間が採集し、利用していた野生のイモ類はもともと人間の生活圏からあまり離れていない場所に自生していた可能性がある。というのも、後に栽培植物となるイモ類は、いわば人臭い環境にだけ生育する雑草だったからである。
 雑草といえば、日本ではふつう邪魔な植物あるいは役に立たない植物というイメージが強いが、ここでいう雑草とはそれとはやや異なる植物群のことである。すなわち、雑草とは、人間が撹乱した環境のみに適応し、人間に随伴している植物のことである。雑草は道ばたや畑、さらに空閑地などで生育し、自然林や自然草原には侵入しない。そして、人間によって利用されるようになったイモ類もこのような雑草型のものであり、人間の身近にあったと考えられるのである。
 じつは、ある環境を人間が恒常的に利用することで、そこは自然の生態系ではみられなかった人工的な環境に変化することが知られている。たとえば、キャンプや薪のために森林を伐採したり、移動にともなって踏み跡をつくったり、さらに排泄物を残すようなことを続けていれば、そこ人間によって撹乱された生態系となる。やがて、そのような環境だけで生育する植物が生まれてくる。そのような植物こそが雑草なのである。
(中略)
 とくに、このような動物の囲い場には大量の排泄物も残されることになるが、これが大きな意味を持つ。人間の排泄物にせよ、動物の排泄物にせよ、そこには窒素をはじめ、様々な物質が含まれている。このような物質、とくに窒素に対して適応した、いわゆる好窒素性植物がやがて生まれてくる。こうして、イモ類の野生種のなかにも撹乱した環境のみに生育するもの、すんわち雑草型のものが生まれるようになったと判断されるのである。p.63-64

人間活動と植物の相互作用。野生種から、雑草型を経由して栽培植物へ変化していく道のりが興味深い。他の作物も含めて、長期間の相互作用の結果、栽培植物が出現した。「農業革命」というのは、相当長期間にわたるプロセスだったのだろうな。

 こうしてクロニカをみてゆくと、トウモロコシの利用に関して注目すべきことがうかび上がってくる。それは、食料としてのトウモロコシの食用に関する記述が少ないのに、チチャ酒の材料としてのトウモロコシに関する記述がきわめて多いことである。ひょっとすると、収穫されたトウモロコシの大半はチチャ酒として消費されたのではないか、と思えるほどである。
 もし、この想像がまちがっていなければ、それはなぜか、という問題が問われよう。その問いに対して、ひとつ思い当たることがある。それはインカの再分配経済の象徴としてのチチャ酒の役割である。インカ社会は市場経済以前の社会であり、貨幣の利用は知られていなかった。税はすべて労働によって支払われ、住民は必要に応じて食料や衣服などが見返りとして分配された。つまり、治める者と治められる者とのあいだは互恵関係にあった。このような一般住民ととのあいだの互恵関係は、インカ王や地方の首長たちからみれば、再分配の行為にほかならなかった。そして、この再分配のときの贈りものとともにチチャ酒を気前よくふるまうことによって、彼らはしばしば自らの権威をたかめていたのである。
(中略)
 このように、チチャ酒をインカ帝国の再分配経済の象徴とみれば、トウモロコシ栽培に関する、いくつかの謎も解けそうである。たとえば、インカ王が灌漑技師まで派遣してトウモロコシ耕地用の階段耕地の拡大をはかったこと、それはチチャ酒の消費量の増大に対する方策ではなかったか。また、その階段耕地がきっちりと石を積み上げ、精巧につくられていること、これもインカ王の権威や威信を示すものではなかったか。ときに、このトウモロコシ用の階段耕地は、耕地としては不必要なくらいに美しい等高線を描いているが、これもトウモロコシが単なる作物などではなく、神々に捧げられるチチャ酒の材料だったからではないのか。
 このような考え方は、見方をかえれば、トウモロコシの大半はやはり食料としてよりも酒の材料として利用されたことを物語るのではないか。これは、トウモロコシが食料として利用されなかったということではない。クロニカにも散見されるように、トウモロコシも食べられていたし、地域によっては主食にしていたところもあったかもしれない。また、トウモロコシはインカ軍兵士の食料としても重要視されたというクロニカの記録もある。しかし、インカ帝国におけるトウモロコシ栽培の主たる目的はチチャ酒の材料を得るためであり、そのためにこそトウモロコシ栽培の拡大をはかったと考えられるのである。p.188-9

 ここで儀礼的・宗教的価値の高い作物がインカ帝国の征服に果たした特異な役割について述べておかなければならない。じつはインカ帝国の征服は必ずしも軍事的行動をともなったわけではなく、しばしば被征服者に贈り物を与えることによって好意を得、自分たちの味方にした。つまり、インカ帝国の征服にとって重要なのは領土支配ではなく、人的資源の確保にあった。ピースたちによれば、「インカの征服とは、血なまぐさい軍事征服よりも、アンデス世界で古くから行なわれていた互恵と再分配のシステムの拡大として実現された」のであった[ピース・増田 1988:63]。したがって、征服のときの「贈り物」は引火の再分配行為であり、その恩恵とひきかえにインカ帝国は相手から一定期間の労力提供をもとめることができたのである。そして、この征服の時の「贈り物」にトウモロコシやコカなどが使われたと考えられるのである。p.291

 この点で、アンデス住民にとってのトウモロコシは、日本人にとっての米のようなものかもしれない。米と日本人の関係を人類学的に明らかにした人類学者の大貫恵美子氏は、日本人にとって米がもつ意味を次のように述べている。「日本人の食生活の中で、米はまぎれもなく、特別な意味をもつ。摂取量の面からだけみれば、日本人のすべてにとって、米が一番重要な食べものであったとはいえないが、ことに儀礼、祝い事など特別な行事には、米は絶対欠かすことができなかった」[大貫『コメの人類学』(岩波書店、1995:82)。p.309-310

本書のトウモロコシの記述を読みながら、これは日本の古代あたりの米はこんな感じだったのではないかと考えていたが、著者も同様に考えていたのがあとがきで分かった。酒の材料として、儀礼的重要性、兵糧や都市住民の食料だったこと、などなど。類似性が目につく。耕地が国家管理だったことも、米とトウモロコシの類似性を感じさせる。古代日本の水田も共同管理だったからこそ、班田収受なんて制度が可能だったのではないかな。
少しこの視点で本書から敷衍すると、トウモロコシは実物貨幣としての機能を果たしていた可能性も指摘できそう。低地のトウモロコシと高地の家畜やその毛の交換という記述が168ページにあるが、インカ王を介さない贈与互酬関係や、古代的なスタイルの市場(市場)は存在しえたのではないだろうか。そこでは布・コカ・家畜・トウモロコシなど、生態的な条件によっては確保し得ない資源の交換が行なわれ、そこでは上記のようなものが実物貨幣の機能を果たしていた可能性はあるのではないか。門外漢の思いつきだが。

 この踏み鋤はアンデス研究者以外にはあまり知られていないらしく、まして踏み鋤の有効性についてはほとんど知られていない。アメリカ大陸での畜力による犂の導入はヨーロッパ人の到来まで待たなければならず、それ以前は人力によるしかなかったが、踏み鋤はしばしな畜力による犂に匹敵するほどの大きな効果をもつ。たとえば、踏み鋤では大きな耕地を能率的に耕すことはできそうにないと考えられがちであるが、中央アンデスの高地では、広い面積を短期間に踏み鋤で耕している光景をしばしば目にする。このときは、先に紹介したような男女一組のペアではなく、横一列に数組、時には十組ものペアになって耕す。これはケチュア語でアイニの名で知られる共同労働の一種であり、このような方法であれば畜力による耕起にも匹敵するほどの能率をあげることが可能である。現在も中央アンデスで畜力による犂とともに、インカ時代にも知られていた踏み鋤が依然として使われている事実は、踏み鋤が犂にさほど劣らない農具であることを物語っているのである。
 このように踏み鋤は効率的な農具であるが、わたしの調査によれば、踏み鋤がふつうにみられ、またそれを不可欠な農具として使用しているのはティティカカ湖畔を中心とする中央アンデス中南部高地だけである。ペルーの中部ではフニン県やアンカッシュ県までは踏み鋤が見られるが、これより北ではみられない。また、南の方ではアルゼンチン北部の山岳地帯では踏み鋤の存在は全く知られていない。
 この踏み鋤の分布は、まさしく中央アンデスの根栽農耕文化圏に一致するものである。このことは踏み鋤がジャガイモ栽培と密接な関係をもって発達してきたことを物語るのではないか。p.283-4

ここの部分は面白い。いったん栽培化されて、利用しやすくなった作物は、文化を越えて移動していく。しかし、栽培化までに培われた制度というのは、文化を越えて移動するのが難しい。「アイニ」という共同労働があってこそ、効率的な農具である踏み鋤は、その文化圏を越えて普及できなかったのだろう。