鈴木善次『バイオロジー事始:異文化と出会った明治人たち』

 生物学をはじめとして、医学・農学といった生物現象に関わる学問がどのように受容されていったかを扱った本。大まかには、それぞれの分野での外国人教師による導入、日本人研究者の出現と拡大、社会との関連といった順番で語られる。昆虫や農学などの分野では瀬戸口明久『害虫の誕生』と被るテーマ。人名などでは、どちらの書物にもでてくる人が結構居ておもしろい。
 しかし、全体としてテーマや時間の範囲が広すぎて、散漫とした印象。また、基本的には生物研究者の文献・発言をつないでいっているので、社会への影響あるいは学問の自立といったテーマについては掘りが浅いという感じを受ける。日本人研究者へのスイッチというテーマに関してなら、プロソポグラフィー的な手法など、使える方法はいろいろあるのではないかと思う。社会的受容に関しては、理科教科書は広く通用したメディアとして有用だと思うが、それだけでは物足りない。他のメディア、特にどのように「曲解」されたかというが結構重要なのではないかと思う。現代だとオカルトでも、理系の装いをとっていたりするように、「科学」というのがかなり深いところまで定着し、一定の権威というか信頼性を獲得しているが、過去にはどうだったか。また、簡単に通観するにはいい本だが、その場合は人名索引がないのが惜しまれるところ。
 個別のトピックでは、優生学と細菌学のところが印象的。
 前者では進化論の受容から人種改良論への流れを簡単にまとめている。明治18年刊行の高橋義雄『日本人種改良論』では、西洋人の優れた能力を取り入れるためにヨーロッパ人との混血を勧めているそうだが、これなんかは「そう来たか」みたいな面白さがある。ナショナリズムと結びついた優生学よりは無邪気でいいよなと思わなくもない。ナショナリズムと結びついた人種至上主義にいたっては、気持ち悪い以外の何物でもないし。
 後者の細菌学については、「日本での病原細菌学分野のスタートは世界的に見ても早い方であったし、その研究成果もすばらしいものであった」(p.133)そうだ。これは、細菌研究が新しい分野だったからこそなのだろうな。分類学や生理学の研究では、データの蓄積が厚くて、そう簡単に伍していけるものではなかったが、新興分野ではそのようなハンデは存在しなかったという側面もあるのだろう。
以下、本筋とは関係ないがちょっと印象に残ったところ:

 しかし、はじめのころの彼らに対する評価は必ずしもよいものばかりではなかったようである。明治七年の『郵便報知新聞』(のち『報知新聞』)には次のような記事が載ったという(小野秀雄編『新聞資料明治話題辞典』東京堂出版、平成七年〈1995〉)。
 「それ外人の狡猾なる言をまたず、福沢先生等は在留の外人中一個の頼むべき人物無しとせり。ヒイキ目にこれを見て玉石混交なりとせり」(十一月七日号)。
 いろいろ身元を偽って官庁に採用されることを企んだ外国人もいたようである。p.22-23

お雇い外国人の話。このあたり、『ルワンダ中央銀行総裁日記』に出てくる白人と重なる印象。「帝国」の最前線では、怪しい人物が跋扈していたのだろうな。これは、大陸浪人など日本人にも当てはまると思うけど。