山田雄司『跋扈する怨霊:祟りと鎮魂の日本史』

 怨霊観の変遷を追った著作。怨霊が政治的な重要性を持ったのは、奈良時代から鎌倉時代にかけてであったようだ。この時代には、自然や政治の安定と祭祀が非常に強い関係を持ち、関係者の死の連続や飢饉に対し、鎮魂の活動が行なわれた。長屋王から後醍醐天皇まで。祟りの対象になった人々のおびえぶりも興味深い。特に頼朝の滅ぼした人々に対する恐れは興味深い。

慈円の認識では、怨霊とは人々の共通認識として怨霊となるであろうと思われた人物が怨霊になるのだとされている。これは、人々の心の根底にある「あるべき姿」を求めようとする意識が怨霊を作り出すのだといえよう。p.4



 御霊会と民衆信仰の関係(p.58)や「怨霊」が「幽霊」になると政治の課題でなくなるという指摘(p.173)、あるいは、「怨親平等の思想」による異国人の供養の話(p.187)などが興味深い。豊臣秀吉の朝鮮侵攻時の「耳塚」もこの流れにあるのだとか。

 そして、「怨霊」という語があまり用いられなくなり、かわりに「幽霊」が用いられるようになると、巷間では以前とかわらずに恐れられていたものの、政治的には意味を持たなくなっていった。すなわち、国家によって「怨霊」への対処は行われていたのに対し、「幽霊」が国家によってとりあげられて鎮魂されることはなかった。
 この転換は、神観念の転換とも重なる。室町時代までは、日本は「神国」であり、神が非常に重要視されていたのであるが、戦国時代以降は、俗事が優先され神が第一義的に優先されることはなくなった。そして、神は人によって「利用」される存在へと顛落していったのである。p.172-3

 また、いわゆる「南京大虐殺」の責任を問われ、A級戦犯として処刑された松井石根は、日中両軍戦没者の供養のため、昭和十五年(一九四〇)自邸のあった熱海に興亜観音を建立し、観音力によって東亜のの平和と繁栄を築こうとした。戦争が終われば敵も味方もなく、等しく戦没者を鎮魂しようとする怨親平等の思想に基づいた行為であった。p.187