初田亨『繁華街の近代:都市・東京の消費空間』

繁華街の近代―都市・東京の消費空間

繁華街の近代―都市・東京の消費空間

 銀座を中心に、近代に入ってからの商業空間の変遷を跡付けた書物。近世の動きのない都市から、人が活発に移動し、劇場空間としての街路=繁華街が出現する昭和戦前期までを描く。銀座の煉瓦街に座売りからディスプレーを伴う陳列販売方式への変遷が見られるようになり、雑踏のなかで遊覧することが楽しみになった勧工場、路面電車の普及によって広域化し歩き回ることが楽しみの場となる繁華街の出現、都市の多目的な空間としての百貨店と喫茶店、歓楽境としての銀座の出現までを追っている。
 個人的には本書のストーリー展開は、どうにも首をひねるものがある。近世は「地域完結社会」であり、特定の人を相手にするために座売り方式、均質な町並みを特徴とした。これが近代に入ると、人々が都市内を動き回るようになり商店も不特定の顧客を相手にするために陳列販売方式になり、建物も自己主張が強いものに変わっていった。このようなストーリーが大枠になっている。しかし、江戸をこのような「地域完結社会」としてしまうのには、疑問を感じる。私は江戸・東京について体系的に知識があるわけではないが、江戸は多数の外来者が行きかう都市ではなかったか。参勤交代でやってきた武士たちが、勤務の合間に遊山に出かける。江戸時代には伊勢参りをはじめとして、観光も発展していた。その状況を「地域完結社会」で片付けてしまうのはどうだろうか。この著者の本をはじめて読んだので、他の本ではそのあたり何らかの根拠があるのかもしれないが、本書を読んだだけでは江戸の状況を調べず、図式的な理解にとどまっているのではないかと感じる。
 このモチーフは、

 賑わいに紛れ、商品をみて歩くことそのものを楽しむ人々の行為は、伝統的な座売り方式の店舗のように、「良賈は深く蔵して虚しきがごとし」を旨とし、商品を店の奥にしまい、売り主が顧客に対応しながら必要な品物を出してきてみせる方法では成立しにくく、陳列販売方式の店舗によってはじめて可能になったと考えらるれる。この点からすれば、ひとつの建物内の売店をみて歩く、限られた行為ではあるものの、勧工場が、大正時代の「銀ブラ」に象徴されるような、街衢鑑賞の先駆けをなしていたともいえよう。p.102

 この頃の商人たちは、「良賈は深く蔵して虚しきがごとし」といわれたように、よい品物は奥に隠して、店頭には飾らないことを信条としていた。多くの品物を店に並べ、陳列しておくのは、あまり商品をもっていない小さな商店であるとさえいわれた。
(中略)
 このような座売り方式の店舗では、客が購入の目的をもたないで店舗を訪れることはほとんど不可能であった。p.119

といった風に、繰り返し使われる。しかし、これは江戸時代の商業の偏差を無視しているのではないか。「見世棚」や浅草寺門前の盛り場の店舗は陳列販売方式ではなかったのか。屋台や行商をどう考えるか。上の引用からは「小さな商店」では、陳列販売方式が採用され、座売り形式はグレードの高い一部の店のみだった可能性があるのではないか。江戸時代の考察抜きに、座売り形式を強調するのは片手落ちだと考える。
 確かに、江戸には大名屋敷を中心とした閉鎖的な経営体が多数存在し、そこでは出入り商人が主体であった。下級の旗本・御家人はあまり消費を行なわなかっただろう。近代の東京では、新たな人口が流入し、サラリーマンや職工といった新たな職業・居住形態が主体になった。その点で、江戸から東京へは変わった点が多いだろう。公共交通機関の導入も空間構造を変えたことは想像に難くない。しかし、本書の図式的な理解では、そのような変化の真の姿を明らかにできていないのではないだろうか。


 本書では、商業空間を扱うというテーマから、明治から昭和前期にかけての商業建築が多数紹介される。藤森照信『新版:看板建築』でも指摘したが、五十嵐太郎の『「結婚式教会」の誕生』と接続して考えることができるのではないか。
 『「結婚式教会」の誕生』では、バブル期のラブホテルや現在普及しつつある結婚式教会のキッチュさを、ポストモダンとつなげて考えている。しかし、本書や『看板建築』を読むと、震災後に普及したバラック商店や看板建築、遡って明治30年代の勧工場や「東京市区改正」で建設された洋風建築、浅草の活動写真館など、表層だけ洋風の様式を取り入れたキッチュな建築は近代に入ってから連綿と続いてきたと考えることもできる。「ポストモダン」のキッチュな建築、ディズニーランダイゼーションといった概念をより長い時間の中に位置付けて見直す必要があるのではないだろうか。日本の建築文化は、近代にヨーロッパ建築の様式を表層的に取り入れるようになった。日本の近代建築は「表層性」を獲得したといっていいのではないか。そう考えることができるのではないか。これらをつなげて、日本の建築の「底の浅さ」を論じることができれば、面白いのではないかと思うのだが。


以下、メモ:

 明治一〇年代後半につくられた銅版画から、商店の分布を通して、銀座のもつ特性について日本橋地区と比較すると、日本橋地区には、問屋であることを明記し、問屋を誇示したと考えられる例が多く見られたのに対して、銀座には問屋は少なく、それに対して、当時新しく日本に入ってきた、洋物や舶来品を取り扱う商店・事務所が多くあった。また建築形式でも、商品を陳列して販売する店舗が多く見られるなど、銀座の方が新しい時代の動きに敏感であることがうかがえた。おそらく、日本橋地区が江戸時代の形式を引きずったまちの中に、徐々に新しい要素を取り入れていったのに対して、新しくまちがつくられた銀座では、新しい時代の動きに敏感に反応することができたのだろう。やがて銀座は、日本橋地区を抜いて日本一の繁華街に成長していくが、銀座煉瓦街がつくられて間もなくの、明治一〇年代後半の街並みの中にも、それを可能にした原因の一端をみることができる。p.43

うーん、陳列販売方式が新しいという前提がなければ、単純に商店のグレードの差ではないか?商店の偏差について明らかにしてないと、立論が不十分になるように思う。

 六階の高さにあたる屋上には植物が植えられたほか、温室、稲荷堂、噴水、奏楽台、茶室などが設けられ p.164

1914年に建設された三越の新館の屋上について。ビルの屋上に神社を設置した最も早い例になるのかな?

 縁日や夜店の存在を、都市における「ハレ」の場として理解するならば、縁日から夜店への移り変わりの中に、「ハレ」の場が、時間的なものから空間的なものに移り変わっていく過程を読みとることができるであろう。近世においては、都市空間のなかの個々の場所や地域が、時の流れのなかで、公、あるいは非日常的、よそいき、祭りなど、いろいろな行事を行なう「ハレ」の場になったり、公でない、あるいは日常的、ふだんの「ケ」の場になったり、時間の経過によって変化していたが、都市が近代化していく過程で、特定の場所や地域のみが、一年中「ハレ」の場であり続けるような空間として、他の場所とは異質な特徴をもった部分を、都市のなかに形づくるようになっていったのである。p.222-3

江戸時代の盛り場も、基本的には同じ場所に立地していたのでは? 京都の四条河原や江戸の浅草寺門前など。江戸時代について、もう少しきちんと調べて比較しないと、どうしても話が怪しくなる。