女性の暴力

 今読んでいる、松原隆一郎の『失われた景観』という本に、こういう一節がある。

 卓抜なロック論『人格知識論の生成――ジョン・ロックの瞬間』を著した一ノ瀬正樹氏は、Personが意味するものに注目を促している。一ノ瀬氏によれば、Personは「人格」と訳されなければならない。(中略)そこでは人と身体の労働と財の所有権が、別々に切り離されて存在するものと理解されている。これに対し一ノ瀬氏は、人格とは、財をも取り込むものだと主張する。我々はある人の人格について語るとき、その人の「内面的な性格や人柄だけでなく、何を食べ何を着るか、どういう家にどういう家族と住んでいるか、どのような蓄財があるか、どういう人々と交流しているか、どういう仕事をなしたか、といったいわば外的な財にまで言い及ぶ」と言うのである。永井荷風といえば玉ノ井や浅草といった下町の情景が浮かぶ。画家の中川一政にとって、描き続けた真鶴の情景はその人となりと切り離せないものだろう。つまり、一定の個性ある景観は、ある人の人格と不可分であるはずなのだ。一ノ瀬氏は「人格」にかんするこうした理解を「人格要素説」と呼ぶ。それによれば、人格と財とは本来的に分離されない。それゆえ財の使用・譲渡・交換により、人格は変容していく。新しい家に住めば人格は異なってみえる。財物の使用や譲渡は、人格の一部を使用し譲渡することでもある。p.128-9

 つまり、周囲のモノも人格と不可分に結びついている。そして、これはコレクターがあつめたコレクションについても、当てはまるだろう。そして、世間を見ていると、コレクションを捨てられたという体験談は結構よく聞く。この面での、女性の暴力には結構仮借ないものがあるように思う。この大事なものを捨てる=人格を壊すという行為で、粉々に人格を破壊された例としては、鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしいが印象的。
 こういう行為をする女性って、無意識的に家庭内での優位をえるためにやっているんじゃなかろうかと感じる。大体、日本では家の中の空間については妻の側に主導権があるが、まさにそれは人格的な支配権、家庭内での政治的優位をめぐる闘争の一環なのではないだろうか。と、ふと思った。
 つまるところ、暴力というのは、物理的な力だけにとどまる問題ではない。そこが難しい。


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オタク趣味な夫(発言小町)
元の小町のトピは削除たようだな。