仁木宏『空間・公・共同体:中世都市から近世都市へ』

空間・公・共同体―中世都市から近世都市へ (AOKI LIBRARY―日本の歴史)

空間・公・共同体―中世都市から近世都市へ (AOKI LIBRARY―日本の歴史)

 昔、一度通読した本だが、読み直し。改めて読むと、面白い。以下、いい加減にまとめる。
 京都、本願寺寺内町、大名の城下町の三つの都市類型を題材に、各種の権力・社会関係が錯綜し、地誌的にも散在的な、中世都市の「多元性」から、一方に町共同体を置き、一方に一元化された権力を置く、単純化された近世的な都市への変化を明らかにする。
 最初の京都では、中世においては、土地の支配関係、座を通した支配関係、被官といった個人的な支配関係の三種類の関係を通して都市の支配が行われてきた。また、地誌的にも、建物が散在し、その間に耕地があり、外縁には有力寺社の門前町が展開すると言う散在的な様相を呈していた。これが、応仁の乱以降、町並みの稠密化とそれに伴う地縁的な組織、町共同体の発展を見るようになった。戦国時代を通じて、中世的な多元的支配システムと町共同体は、押し引きしながら共存するが、統一政権によって中世的な支配関係は否定される。この際、都市住民の志向を重視する。戦国末期には、人口の流入や混乱の中で、町共同体は「平和」の維持ができず、それを保障する「公」として統一政権は正統性を得た。
 続いては、関西を中心に叢生した本願寺寺内町を取り上げている。本願寺は、関所の交通の遠隔化や所質・徳政の免除などを、特権の形で確保し、流通商業の円滑化・安定による地域経済の活性化を先駆的に成し遂げた。しかし、本願寺は「権門体制」の一員としての立場を崩さず、それゆえの限界があった。ここでも、織豊政権が「公」として、その保障を行い、それによって正統性を確保した。
 最後は、大名の城下町。守護所から守護大名の城下町、戦国大名の城下町、さらには近世大名と時代を経るにつれ、家臣団居住地域の明確化と居住の強制、兵農分離による町人町の形成の状況が跡づけられる。戦国期までは、国人などの有力領主が自己の城下集落を維持し、大名城下町に対抗するなど、一元化は進まなかった。それに対し、近世大名は家臣の城下への集住、自己の城下町の領国での急進性の確保に成功する。これについては、私自身は、単純に織豊政権以降の大名が各地に急速に移動し、土着性を失ったのも要因だと思う。
 中世の都市から近世の都市を、共同体と公の側面から、シャープに描いていて面白かった。研究史の中での位置づけと言うのは、ちょっと分かりかねるが。