丸山裕美子『正倉院文書の世界:よみがえる天平の時代』

 タイトルのごとく、正倉院文書の紹介。いや、いろいろとあって興味深い。
 紹介されるのは、聖武天皇光明皇后が自分で移した書物と正倉院宝物のリスト、実務文書類。狭義の正倉院文書とされる実務文書類は、複雑な成立過程をたどっている。まず、律令国家の文書として作成された戸籍や帳簿類が廃棄され、それが東大寺の写経所の管理文書として再利用され、それがなぜか正倉院に残されたそうだ。
 戸籍をはじめ、中央官庁でやり取りされた請求書の類、地方の書類のやり取りを記録した帳簿などなど。バラエティに富んでいる。反故文書だけに、偶然が作用して、かえって面白い残り方をしたのだろう。また、その後、反故文書の裏側を利用した二次文書である、写経所の管理書類も面白い。本書で紹介されたのは、給与、支給された食料、休暇届けなど、役所の一般職員の生活が垣間見える。人によっては、(有力者の家政関係者等)平城京から出土した木簡に名前が残っているのも興味深い。
 ただ、本書を読んでいて思ったことは、これら律令国家の文書類が、どの程度、現実を反映しているのか。これは、どの文書にも通じる問題だが、特に律令国家の文書にはフィクション性が強いように感じる。戸籍の人工的に50戸に編成した戸籍とか地方行政官が中央に提出した帳簿類などはどの程度信用できるのだろうか。
 写経所の休暇届の病欠の文書から、写経所の職員がどんな病気にかかったかを追求する作業にしても、場合によっては仮病もあったのではないだろうか。そんなことを考えると、歴史って、本当によくわからないなあと思う。定期休暇の後にでてこないで、その後病欠の申請書を送ってきた事例(p.205)など、仮病か、逆にだからこそ病気と信用できるのか。どう評価したらいいのだろうか。まあ、もっともらしい言い訳として、一定の説得力があったはずで、そのあたりで情報源としては意味があると考えることができるか。

饗宴に遅れたり、何らかの失態をした場合に、「罰酒」といって、罰として酒を飲まされることもあった。p.235

 現在もこのような風習が形を変えながら残っている。駆けつけ三杯とか一気飲みなんかがそう。歴史がつながっている。それが面白い。