久繁哲之介『地域再生の罠:なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

 至極、適切な指摘だと思う。箱もの偏重をやめて、地域の文化や住民の交流を重視した施策が必要と主張している。物の消費が頭打ちにあり、商店が過剰供給にあること。その状況では、交流や「物語」の付随といった形で、新たな消費を喚起する必要があると指摘する。また、大資本との直接的競合を避けるというのが、基本的な姿勢と言っていいだろう。
 ただ、だからこそ難しいとも思う。人々のつながりをどう誘導していくのか。地域の文化的資源をどう生かすのか。本書では、宇都宮のバーテンダーや島根の喫茶店秋葉原などが例として取り上げられているが、これは確かにすばらしい地域の「資源」だと思う。しかし、これこそ、自然発生的なもので、外部からは育成のしようがないし、ある程度育った後も、外部からの介入が極めて難しい。秋葉原なども、「オタクの聖地」と持ち上げられてはいるが、それが喧伝された揚句に、逆にオタクには居ずらい環境と化しつつあると聞く。有名なれば、荒れる可能性もあるだけに、難しい。
 あと、宇都宮や岐阜の衰退も衝撃的だな。熊本市はそれよりは多少規模が大きいが、それでも中心市街地の衰退は無縁でない。新幹線の開通でストロー効果も懸念されるし。
 本書は金言に満ちている。上っ面だけを模倣しても意味がない。内発的な意識こそが大事と発破をかけている。線を引きながら読んだら、収拾がつかなくなりそう。以下、一部を引用:

 地域再生関係者は、よく成功事例を「視察」する。しかし、私は「視察」という行動、そして言葉も好きではない。なぜなら、都市は「体感」してこそ「目に見えないことに気がつける」からである。
 市民の行動や会話に、五感を傾けることで感じとれる「魅力および問題点」が都市には沢山ころがっている。だから、私は訪問した都市の先々で、市民の行動や会話に五感を傾けて、都市や施設の「魅力および問題点」を感じとろうと努めている。p.19

少なくとも、その都市を車以外のもので動かないとわからないことは多い。あと、都市を「読み取る」には相応のリテラシーと訓練がいる。私も町並みや地形しかわからない。

 この根本問題の本質は「商店の過剰」にある。これはかなり昔から指摘されており、解決策のひとつとして施行されたのが「大型商業施設の出店規制」だった。1974年に施行された「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」(通称「大店法」)は、小売業の正常な発達を図るため、大規模小売店舗とその周辺の中小小売業との利害を調整することを目的とする法律であった。2000年に「大規模小売店舗立地法」の施行にともない廃止されたが、同法によって小売業の健全な環境を維持するために、大規模小売店舗の出店と運営に制約がかされている。
 だが規制緩和により、新たな大型商業施設が乱造され、古くからの商店街が苦境に立たされている。そうした商店街を保持するために「レトロ化、高齢者対応化」が全国的に行われている。だが、それらは需要と供給を無視した計画であるため、本来は競争で淘汰されるべき小売店が生き残っている。これが商店の過剰の構図である。p.55

 レトロ化は多いなあ。ふと思ったが、大規模郊外型店舗の規制に関しては、出店よりも、むしろ撤退の規制が必要なのかもと思った。住民の消費活動の維持こそが重要であり、それを担うのは誰でもいいわけで。商店街を潰した揚句、自分は撤退してペンペン草も生えない状況にしてしまうのが一番問題なのだし。

 地域再生とは、こうした心性(自由時間を私室でまったり過ごす傾向:引用者追記)をもつ今時の若者たちに、彼らが暮らしを営んでいる地域を愛してもらい、地域に定着してもらえるための仕組みを創ることでもある。この仕組みは、街中や施設に「若者を来させる」という「提供者の視点」に立った作為的な発想からは、決して生まれてこない。若者そして市民のライフスタイルを知り、それを満たす「顧客、市民の視点」が重要である。p.104

 行政などの管理職の「オヤジの論理」の批判と若者のライフスタイルの変化を論じての小括。これは大切な視点だと思う。

 この市長回答から3ヵ月後、ついに路面電車廃線となる。「自動車に負担がかかる」ことを理由に路面電車廃線にした市長回答が象徴しているように、岐阜市は、「市民の生活」よりも「車の円滑な交通」を優先している。第2章の松江市で見たように、人より「自動車が優先される都市」は必ず衰退へ向かうのである。p.135

これは、正しいと思う。自動車交通では、「場」ができない。

 西欧人がコンパクトな環境にすむことは、彼らのライフスタイルを実現し、幸せになる手段である。ここにコンパクトシティの本質がある。都市政策は、市民のライフスタイルを尊重して導かれるべきであるとするのならば、西欧でのコンパクトシティはまさに市民のライフスタイルに合致しているのである。日本のように、専門家が夢想した青写真のような都市政策に、市民が合わせることを強要されるものではない。p.153

都市工学批判。確かに、政策として具体化されているコンパクトシティは、建設優先というか、施設優先の性格が強いからな。日本人もつい最近までは、コンパクトな都市に住んでいたわけだから、日本的なコンパクトシティというのも不可能ではないと思うのだが。ただ、近代の商家なんかの施設はかなり貧しかったのも確かか。

 土建工学者は「人の心を捉えるソフト事業」には目を向けず、「器づくり、箱物づくり」を推奨してきた。自治体はこれに倣い、地域再生の予算配分も「器と箱物」に集中させた。ここに日本の地方都市が衰退し続ける構図があることは再三指摘してきたとおりだ。
 「器づくり、箱物づくり」に邁進してきた地方都市はいまだに活性化しない。むしろ、器や箱物だけは立派な地方都市ほど疲弊している。p.167

これも、都市工学・土建批判。都市の活性化というと、なぜか再開発ビルに区画整理だからな。あの予算を、くじ引きで誰かに配ったほうがまだましというレベル。成功した再開発ビルなんて、聞いたことないし。


 本書では、随所に、都市工学や建築系の学者に対する批判がちりばめられている。その批判に私も共感するところがある。越沢明の『復興計画』(ISBN:4121018087)や土地区画整理の意味がよくわかる地図です。を読んだ時の反発と同根なのだろうな。前者の、区画整理された広い道路の街路にしか価値を認めない思考や、それに反発する動きに対する蔑視。なんだろうね、あの選民思想は。そこは本当に生きている空間なのかが重要なのだが。区画整理が進みまくった別府なんか、北側の戦後やったところは確実に失敗くさいし。
 あと、242ページからの商店街の「所有と経営の分離」という方式が持つ問題点について、群馬県太田市の南口商店街が風俗街と化した例を引いている。が、風俗というのも「需要の創出」にはそれなりに有効な手段だと思わなくもない。風俗街では人通りが回復しない、町が荒れるという問題点があるので批判的なのはわかるが。最後の手段としては、というか、風俗街になれるだけマシという点があるのでは。