竹内常善『形成期のわが国自転車産業』

d-arch.ide.go.jp
 とりあえず読了。書いた年代が古いせいか、なんというか道具立てに違和感。

江戸封建体制の「居住強制」下にありながら,彼がかなり自由に各地を移り,職人としても比較的容易に各地の職人社会に受け入れられていたことを窺知できる。

こういうことが書いてあると、冗談抜きに萎える。こんな感じの見方が全体通じて続く。また、自転車業者についてのエピソードは各種史料から豊富に引用されているが、それだけでは「分析」になりえないのではないか。同時代の金属加工業全般を視野に入れなければ、自転車産業の特色は析出できないのではないか。特に、熟練工を中心とする人材供給の側面については、強く感じる。
 昨日読んだ、鈴木淳『明治の機械工業』が指摘するように、幕末の時点で熟練工は広範に流動していたし、それはその後の時代を通じてもそうだった。また、初期の自転車屋は販売よりも修理に比重がかかっていて、鍛冶の技能が必要だったこと。また、堺を中心に小規模な部品生産が叢生したこと。これは、鍛冶・機械工全体の動向と関連があったのではないか。先の鈴木の著書は、伝統的な金属加工に従事していた職人たちが、軍需を含む機械生産の経験を積み、そこから機械産業が発展して行った流れを指摘している。その点では、堺では早くから機械の生産・修理とかかわりがあり、それが自転車生産に流れたのではないか。そのように想像することができる。だとすれば、堺地域の近代に入ってからの金属加工業全般の経験に着目する必要があるだろう。1975年になっても、堺の自転車生産者は、各種の金属加工業者の集団の中に散在していた(小口悦子「堺の自転車産業」『地理』20巻3号、1975)。平均レベルの中での自転車産業の位置を明らかにする必要があるだろう。

 日露戦争を契機にわが国の自転車使用台数は急増傾向を示すことになる。表7にも見られるように,それまで全国で年々数千〜1万台程度の増加台数だったものが,数万台単位の増加傾向に変容している。もっともこの時期の統計数字には十二分の信頼性があるとはいい難い。全国台数の推移も増加数の隔年現象が生じているようである。それでも増加趨勢に大きな加速がついたことは疑えない。この時期の幾つか目につく点をあげてみよう。
 まず第1に,明治39年から41年にかけてはわが国の完成車輸入台数がピークを迎えた時期であったことが認められる。
 さらに第2点としては,明治39年以降に部品輸入が急増し,41年からは部品輸入金額が一貫して完成車輸入金額を上回っている。

 ここも、全般的な状況に位置付ける必要があるだろう。『明治の機械工業』では日露戦争で拡充された軍工廠や造船所から多数の職工が放出されたこと。同時に、中小の鉄工所も軍需を失い新たな製品を模索する必要があったこと。その一部が、石油発動機などの内燃機関の生産に向かったことを指摘している(p.223-225)。このような職工・鉄工所の一部が、自転車の生産に向かったと予想することができるだろう。輸入部品からの組み立てや簡単な部品の模造は、転換先としては、石油発動機よりも敷居が低かったのではないだろうか。

 徒弟制度を基軸とした雇傭関係は完成車メーカーでも同様に維持されている。宮田製作所の事例を見ておこう。
 「従業員も住込の弟子と通勤の職工とはっきり区分されていた。徒弟の仕込は特に厳しく,弟子はどんな仕事でもどんな機械にでも精通していなければいけない。
 鍛冶屋が休めば鍛冶屋もやる,旋盤工が休めば旋盤工にもなる。鑢の使い方も一人前でなければならない。従って年期も小学校卒の頃から,徴兵検査頃までで,年期が明けてはじめて一人前の待遇を受けた。……14)」
 とはいえ,こうした大規模工場では,幾つかの特殊な事態も認められる。同社はわが国では最も早く「日曜休業を断行した自転車工場」といわれているが,同じ明治40年頃に夜業も廃止されている。そして「休日しか出来ないシャフト,ボイラーの手入れは(栄助の)弟彦之助が受持つことと」なっている。「さらに所主は徒弟全部を市立工業補習学校に入れて夜間修学をさせた。また柏木の牧師外村某氏に依頼して月一,二回,休日の夜に修養講演を開き従業員とともに所主も聴講した」とされている15)。

 この部分も、『明治の機械工業』を読んだ後で読むと、なかなか興味深い。第十一章では、豊田佐吉を例に、互換性生産の導入について論じているが、最終的な規模は別として、宮田製作所と豊田自動織機は、この時代には非常に似たような動きをしていたように見える。

 生産の担い手に関しては、明治末年ごろから、移植産業関連部門で、工費節減をめざした経営による労働現場の直接的掌握のために、熟練工の定着化が志向されていた。輸入代替や従来より高度な製品の生産のために技術者主導で新たな生産方式をとった工場でも、その生産方式に慣れた熟練工を定着させる必要があった。
 そこで、工場としての熟練工養成体制を作り、共済制度の充実など、定着を促す制度が整えられた。
 さらに、中小の技術者主導の工場では、経営者である技術者、あるいは豊田佐吉や池貝喜四郎といった新たな生産方式の推進に熱心な象徴的人物が熟練工との人格的なつながりを持つ形で、その定着が行われた。p.345-6

 この事例の中に、宮田製作所を入れてもいいだろう。「色の付いていない」熟練工の養成、職工を学校に通わせる、中心的人物との人格的関係、ゲージの導入、子弟の技術者化などんの特徴が共通している。


 初期の自転車産業史の研究に関しては、史料の掘り起こしと同時に、金属加工・機械工業全体の動向の中に位置づけることが課題だろう。今のところ、そのような視点から系統的な研究はなされていないようだが、その点では、自転車産業の研究には、フロンティアが広がっているのではないか。