デーヴィッド・A・ハウンシェル『アメリカン・システムから大量生産へ』

アメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932

アメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932

 いやはや、読むのにずいぶんかかった。一週間はかかってないようだが。
 19世紀後半から20世紀半ばに至る、大量生産への道のりを描く。フォード・システムに結実する大量生産システムが、長い時間とさまざまな人によるプロセスであることを、各企業の一次史料などに依拠しながら明らかにする。本書のレベルの仕事を日本人がやるのは、およそ不可能っぽい。19世紀後半のシンガー製ミシンの部品を交換しようとしてみるなんて、中の人じゃないと不可能だし、今は中の人でも無理みたい。フォードのコンベアによる流れ作業の出現などは、当時のフォード社がいい意味で混沌とした状況にあり、そのなかから突然出現したことを示している。ここなどは、まさに内部の史料を検証した、プロの仕事だと思った。ただ、私の機械の知識がほとんどないので、細部についての理解はできていないところが多い。
 序章が全体の要約で、めんどい人はここだけ読んでもいいかも。その後は、時代を追って論じられている。第一章は、19世紀半ばの時期の軍工廠を中心した、専用機械を利用した互換性部品生産(いわゆるアメリカン・システム)の起源と形成。フランスの軍事思想が淵源にあり、アメリカ陸軍の軍需部が相当のリソースを費やして追求したものであることが示される。一方で、コルトなどの民間の銃生産や時計生産では、専用工作機械の導入は行われたものの、ゲージシステムなどの精度は劣り、互換性部品による生産ではなかったことが明らかにされる。
 第2章から第4章は、19世紀後半の大規模生産のケーススタディ。シンガー社のミシン、木工生産、マコーミック社の収穫機械がどのように生産されたかを明らかにする。シンガー、マコーミック両社とも、その業種では、トップメーカーだったが、その生産は熟練工による旧来の生産方式で、「アメリカン・システム」ではなかったことが明らかにされる。両社がトップを取れたのは、その生産方式の優劣ではなく、マーケティングこそが焦点だったこと。また、生産数の増加に伴い、アメリカン・システムが導入されるようになったことが明らかにされる。19世紀後半の段階では、完全な互換性部品での生産は、必ずしも経済的に引き合うものではなかったようだ。また、馬車やシンガーのミシンケースのような例では、木工でも大規模な生産がおこなわれた。しかし、家具のような使用期間が長く、趣味が重視される製品に関しては、市場の限界から大規模化は行われなかったと結論している。
 第5章は過渡期としての、自転車生産ブーム。プレス加工の導入。
 第6章と第7章は、真打ちのフォード。狭義の「大量生産」の出現。さまざまな試行錯誤が生き生きと示される。流れ作業とその単調さに報いるための高給の支給がフォードシステムの特徴となる。しかし、フォード・システムは、その大量生産ゆえに市場を飽和させてしまう。その結果、「柔軟な大量生産」に踏み切ったGM自動車産業の主導権は移る。また、フォード社のT型からA型へのモデル・チェンジに伴う混乱から、モデル・チェンジと大量生産を両立させることのむずかしさを示す。
 第8章は、「大量生産」が社会に及ぼした影響。その崇拝者と批判社。「大量生産」が、その起源と大恐慌からの脱出という二局面において、軍事・戦争と深い関係があったことを指摘する。


 本書は、まさに「大量生産」というものが出現する過程のフレームワークを構築している。本書を乗り越えるのは、並大抵の仕事ではなさそうだ。あと、互換性部品とか標準なんて話では、本書が種本だということがよく分った。
 あと、本書のすさまじいディテールが印象的。
 あと、ちょっと気になったのは、鈴木淳の『明治の機械産業』でも紹介されている池貝や豊田式織機会社が1899年ごろに招聘したアメリカ人技師(名前はなんだったっけ…)がどの段階の技術を持っていたのか、どのような技術的背景があるのか。互換性生産にも、発展の段差があったことが分かると、そのあたりが気にかかる。


 以下、メモ:

 シンガー社とマコーミック社、ポープ社、それにウエスタン・ホイール・ワークス社には互いに共通する一つの特徴がある。それは、これらの企業が、それぞれの産業で最も高価な製品を販売していたにもかかわらず、支配的な企業であったことである。この事実は、アメリカ製品が市場で成功したのは、安価に製造され低価格だったためという一般に流布している考えに、重大な疑問を投げかける。シンガー社のみが、――我々の心に「大量生産」のイメージを呼び起こす――年産何十万という生産量に達していた。しかし、十九世紀末頃にはシンガー社の技術には問題のあることが判明していた。一八八三年になっても、シンガー社はまだ仕上げ工を多数使っていたのである。p.14

 合衆国陸軍省が工廠での互換製造を強く主張した理由は、部品の互換性が戦術上重要だったからだけでなく、その年間生産量が限定されており、しかも公共の財源によりこの高価な製造を支えることが可能だったからである。絶対互換性という目標は、計測及び金属加工の機械化の発展を刺激したが、この目標はコルトにとっては、またおそらく一九世紀中頃の他の特許兵器製造業者にとっても、二次的な重要性しかなかった。しかしながら本研究にとって重要なことは、後にヘンリー・フォードが部品の完全な互換性を大量生産の基準としたということである。つまり、「大量生産には仕上げ工はいない」と彼が書いたことである。p66-7

低価格ないしは安価な時計の量産には常にマーケティング戦略の強調が伴っていた。時計産業で、ミシンやリーパー(刈り取り機)、自転車産業と同様に、マーケティングを重視していたことが示唆するのは、マーケティングが製造のアメリカン・システムの重要な一側面であったと考えるべきだということである。これは、南北戦争前にアメリカの技術について論評したイギリス人が考慮しなかった構成要素である。p.81

 マーケティング最強説。

しかし、もっとも重要であったのは、イーグル・ボート小型対潜哨戒機を大量生産するために戦時中に建てられたB棟を、… p.337

 ここは、明らかな語訳。「イーグル・ボート小型対潜哨戒機」ではなく、対潜哨戒艇。詳細はWikipediaイーグル級哨戒艇を見よ。つーか、第二次大戦に参戦した船もあるのか…