『島野工業50年のあゆみ』

 シマノの社史、ただし、40年前のもの。1970年、世界的な名声を博す前の段階まで。内容は、うん、まあ社史らしい社史だよね。よいしょ型。業界の中でのシマノというのがいまいち見えてこない。冷間鍛造の開発には業界団体の研究費も入っているらしいが、そのあたりは全くスルーだったり。まあ、ちゃかちゃか読める。ダイヤモンド社制作で、奥付に値段が書いてあるところを見ると、市販されたのかな。
 初期の自転車生産の歴史についての情報源としては、島野庄三郎の自転車業界とのかかわりや渡り職工としての職歴などは、当時の一般的な状況を示しているのだろう。
 以下、メモ:

 先代高木幸太郎といえば、わが国自転車工業の創設者として、その名はあまねく知られている。高木は、明治二十年ごろの和歌山で西洋式の鉄砲鍛冶の技術を習得し、明治二十六、七年ごろ堺にやってきて、浅香工業というところの職長になった。その後、堺市錦之町で独立、明治三十三年には、はやくも、自転車の試作を始めている。自転車がわが国に本格的に輸入され始めたのは、明治二十七、八年であるから、それから数年後に国産自転車の製造に着手したことになる。
 さらに、明治三十八年になると、高木は、工場を柳之町に移し、自転車の部品であるハブ、バックパイプ、リムなどの生産を本格的に開始した。庄三郎らがこの工場に弟子入りしたのは、それから四年後のことである。p.9

 この高木幸太郎が、少なくとも堺の自転車生産の草分けなのは確か。シマノもここから発しているのか。