加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

 これは面白い。
 高校生向きの講義ということもあって文体は平易、受講した生徒の回答もいい。それでいて、内容は高度。近代に入って日本が直面した戦争それぞれについて、国際環境、諸外国の思惑、世論の動き、指導者が持ちえた情報、それぞれバランス良く目配りしている。結果、日清、日露、WW1、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、それぞれが、どのような動きの中で起こったのかが浮き彫りになる。蒙を啓かれたと言っていい。
 また、序章の「歴史学」とは何かについての話は、大学の一般教養(現在のカリキュラムでは、どう呼んでいるか知らんが)の史学概論なんかの科目の教科書に使えそう。そこらの教科書よりよっぽど使えるし、いきなりカーの『歴史とは何か』を読ませるよりいいだろう。
 しかし、こうして近代の戦争を整理すると、日清・日露の両戦争が、比較的スッキリとした構図の中で遂行された。すなわち、課題、国際環境での正当性、同盟関係などをクリアした。これが、満州事変では、外向きの正当性がない。また、日中戦争以降では、目先の軍略に拘泥してしまった。そのあたりの差を感じる。あとは、松岡洋祐あたりの、公式の発言と内心の落差なども興味深い。
 また、日中戦争までの議論は、比較的シンプルなのに比べると、太平洋戦争開戦に至る時期の諸国家の戦略の動きのむずかしさ。正直、年表でも作って比較しないと、通読しただけでは分かりかねる、状況の錯綜。その中での意思決定が非常に難しかったのだろうなと、そう思った。ナチスの台頭以降の戦略環境がいかに過酷だったか。
 本書を読んでいて腑に落ちないのが、日独の対ソ戦略。どちらも、ソ連を挟撃する動きを期待した。それにもかかわらず、実際に人を派遣するなどして、協議した形跡がない。それが不思議。なんでドイツは、独ソ戦に入る前に日本の介入を誘わなかったのか。それぞれ、自信過剰だったのか。そのような、根回しを怠ったのが最終的な敗北につながったわけで、そのあたりの重要さというのも感じる。
 胡適の「日本切腹・中国介錯論」も印象的。日中戦争に当たって数年にわたって敗北し続ける覚悟とは。陸軍あたりの小才子では、とても対抗できるスケールではないよな。あと、中国人の命の安さも表しているようだが。
 直近の過去の「歴史」が、次の時代の判断を縛るという指摘も興味深い。


 以下、メモ:

 日本国憲法といえば、GHQがつくったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐ出てきますが、そういうことはむしろ本筋ではない。ここで見ておくべき構造は、リンカーンゲティスバーグでの演説と同じです。巨大な数の人が死んだ後には、国家は新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要になるという真理です。p.35

 人が死んだだけでなく、国家の「正当性」がひどく傷ついたという点でも、南北戦争と太平洋戦争の敗戦は共通する。

 ルソーは考えます。戦争というのは、ある国の常備兵が三割くらい殺傷された時点で都合よく終わってくれるものではない。また、相手国の王様が降参しましたといって手を挙げたときに終わるものでもない。戦争の最終的な目的というのは、相手国の国土を奪ったり(もちろんそれもありますが)、相手国の兵隊を自らの軍隊に編入したり(もちろんそれもありますが)、そういう次元のレベルのものではないのではないか。ルソーは頭の中でこうした一般化を進めます。相手国が最も大切だと思っている社会の基本的秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです。
 相手国の社会の基本を成り立たせる秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書きかえるのが戦争だ、と。とても簡単にいってしまえば、倒すべき相手が最も大切だと思っているものに対して根本的な打撃を与えられれば、相手に与えるダメージは、とても大きなものになりますね。こう考えれば、ルソーの真理もすとんと胸に落ちます。第二次世界大戦の、無条件降伏を要求する型の戦争を、なぜか十八世紀の人間であるルソーが見抜いている。本当に不思議なことです。p.42

 18世紀が制限戦争の時代だったことや、ヨーロッパではフェーデという形で紛争解決の中に戦争がビルトインされていたことを考えると、ことさら不思議ではある。その前の、17世紀、30年戦争を中心とする戦争が、まさにハプスブルク家が追求したキリスト教帝国の追求を挫折せしめたものだったのではあるけれど。

 ある研究者は、なぜ、ある「問い」を解かねばならないと考えて研究を始めたのか、そのような「問い」は、なぜ解くにあたいする問題なのか。多くの研究者が自らの「問い」と格闘した結果の集大成が教科書になる、そのような実感が持てる教科書があってもいいわけですね。p.48

 学問を学問たらしめているのが、この「問い」だよな。理系も人文系も社会科学系も。ないのは技術。私自身の問いは、「人間はどのように組織されてきたのか」あるいは「なんで現代社会にはやたらと巨大な組織が存在するのか」といったところか。

 学者先生なのでちょっと難しい表現をしていますが、要するに、日本と中国は、東アジアでの日中両国の関係においてどちらがリードするか、そのことをめぐって長いこと競争をしてきた国であって、そのリーダーシップをめぐる競争という点では、軍事衝突などは、文化、経済、社会、そして知識人の思想やイデオロギーをめぐる競争の、ほんの一側面にすぎないとの見方です。日中戦争以降の日本が中国を軍事的に侵略したのはまぎれもない事実なので、日本人がキンボール先生のいうことを読むと、おや、と思います。中国の側からも、東アジアにおける日中関係のリーダーシップを握ろうとする試みがあったことを自覚的に見なければならない、と教えられるからです。p.84

 で、また今、その争いが再燃していると(うんざり)。

 日本古来の慰霊の考え方というのは、若い男性が、未婚のまま子孫を残すこともなく郷土から離れて異郷で人知れず非業の死を遂げると、こうした魂はたたる、と考えられていたのですね。つまり、戦争などで外国で戦死した青年の魂は、死んだ場所死んだ時を明らかにして葬ってあげなければならない。p.390

 このあたり、ハワイで原潜に衝突されて沈んだえひめ丸を巡っても出てきているように思う。

 ですから、満州からの引揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連侵攻の過酷さ、開拓移民に通告することもなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。特別助成や別途助成という金で、分村移民送出を買おうとした施策は、やはり、大きな問題をはらんでいたというべきでしょう。下伊那地域の町村会長をしていた吉川亮夫という人物も見識のあった人で、吉川は、分村移民をめぐる補助金獲得に狂奔する村々の動きを批判し、「補助金をみらうための開拓民の争奪」が行われていると喝破しています。つまり、今でも国や県がやることはだいたい同じですが、これこれの期日までに、何人の分村移民を集められれば、これこれの予算をつけてやる、というそのようなやり方で、村々に競争をさせたわけですね。p.396

 平成の大合併と同じ構図。そうやって、地域の尊厳を破壊する。