- 作者:安藤 優一郎
- 発売日: 2008/03/19
- メディア: 新書
徳川家の江戸退去と駿府藩の設立に伴って、幕臣たちは、新政府の役人になるか、武士をやめて商売や農業に従事するか、石高が激減した徳川家についていってほとんど無給になるかの選択を強いられたそうだ。どれも茨の道だったようで、特に後の二者は、食うにも困る有様だったらしい。新政府の役人になるのが一番ましな選択だったが、薩長の藩閥が上級ポストを独占し出世の見込みが薄く、周りからは裏切り者扱いをされて、相当居心地が悪かったとか。
あと、印象的なのは、明治政府の能力のなさ。経済史・技術史の方面でも、明治政府の努力よりも、在来産業を重視する見方が出ている。士族授産と称して、販売の見込みもなくウサギの飼育を奨励して、逆に破産させている状況にいたっては。そりゃ怒るわ。本書では、士族や江戸の平民が、新政府に対して非好意的だった状況を記している。これだけ、不満が鬱積していれば、西南戦争の時に、他地域の蜂起を警戒するのも納得かなと。征韓論から日清戦争に至る海外進出も、士族の不満のはけ口というのがテーマだったわけで。それだけのプレッシャーだったのだろう。このあたり、豊臣秀吉の朝鮮侵攻とも軌を一にするな。これだけの不満を吸収するために、議会と憲法の導入を行った伊藤博文は、山県有朋よりも世の中が見えていたのだなと思った。
あと、近代ジャーナリズムが、旧幕臣たちに担われ、新政府への不満を吸収して成長した件や江戸時代を再評価する運動も興味深い。
日本近代史家として知られた大久保利謙は、明治の元勲大久保利通の孫でもあった。その大久保が、第二次大戦後まもなく、国立国会図書館に新設された憲政資料室の主任に任命された時の興味深いエピソードが、自身の言葉で残されている。
(中略)
大久保利通の孫と松平容保の子の間で、どんな会話が交わされていたのだろうか。
私が議長室に入って、しかじかの仕事を始めますからよろしく願いますというと、松平議長は、無愛想げに「それは結構なことであるが、歴史を書くのなら公平にやってもらいたい」という意味のことをもらされた。私は、そのとき、はっとしたことを覚えている。
松平議長は旧会津藩主松平容保の子である。まさか、私が薩長派の子孫であると意識されたわけではあるまいが、とにかく国会図書館で、公的にそういう仕事を始めるということを耳にすると、そういう言葉がつい口に出てしまったのであろう。
もう、かつての明治憲法が廃止された後の新国会においても、会津藩主の血をうけた議長には、なお薩長維新史に対する反感が消えていなかったのである。(大久保利謙『佐幕派論議』吉川弘文館、一九八六年)
(中略)
「歴史を書くのなら公平に」という言葉は、会津藩に限らず、旧幕臣の側が共通して抱き、訴えたい想いだった。p.132-5
使った史料によって、そのあたりはどうしても引きずられるところがあるからなあ。立場によって、見方はずいぶん違うものになるし。そういう意味では、『山県有朋』の後で本書を手に取ったのは、非常に良かった。