阿部武司・西川俊作編『日本経済史4:産業化の時代 上』

産業化の時代 (上) (日本経済史 4)

産業化の時代 (上) (日本経済史 4)

 ごく一部だけ目を通した。19世紀末から20世紀半ばあたりにかけて繁栄した雑貨生産、都市中小工業というのは、経済史方面の視野にはほとんど入っていない感じだ。
 以下、メモ:

 諸機械生産者は経営存続のために多品種少量生産を余儀なくされたばかりでなく、同一品種の生産においても規格不統一の問題に直面せざるをえなかった。たとえば、針金ゲージおよびねじ基準についてみても、「ゲーヂ何番と云ふて見ましても、夫れがアメリカのスタンダードのワイヤゲーヂであるか、或はバーミングハムのゲーヂであるか、其称える人によつて一々其目的を異にして居ります。又捻〔子〕山等もアメリカ山あり、ホウヰツトウオース山あり、其他フランス山、自動車山等甚だ複雑になつて居ります」といった状況であった。しかしこうして各経営内の製造技術が複雑化すればするほど、あらゆる事態に対応しうる技術――熟練の内容はかえってよろず屋的なものとして、個別経営を越えた汎用性を有するものとなった。そうした事態が労働者の容易な労働移動の大きな要因であったように思われる。
 以上のように中古機械、あるいは国産の低級機械を駆使して、規格の異なる製品を注文に応じて多種類生産しうる技術が中小機械工業では通用していた。一工場で注文主の要求に対応しきれない場合には、「その頃(明治中期――筆者注)池貝の隣の工場で敷設水雷を拵へてゐたが、その穴が硬くて明かないので池貝へ持ち込んできた」といったように、その工場が位置する地域一帯の工場群の総合的な技術力で対応することもしばしばであった。そうした事態はすでにみた工場改革を前提として、芝浦製作所の大田黒重五郎が強調してやまなかった「独り其経営を分業とするのみならず、一工場内の工程をも分業とすべきを良しとす」といった専門製作と経営内分業を基本とする技術体系とは異質のものであった。
 日清戦争前後からの大量の参入によって、明治末期の東京、大阪では、一度市場が拡大するや諸機械生産から専門製作へ転換しうる諸機械生産者を中心に、多数の機械業者が集中する工場地帯がすでに形成されていた。導入技術たる機械製造技術はそこでの同業者間の協力と競争関係を通して急速に消化・吸収されていった。経営内分業を推進する大経営だけでなく、上昇志向の強い多数の中小経営が形成されることによって、移植産業たる機械工業は産業構造の中に深く定着したのである。p.245-7



 文献メモ:
竹内淳彦『技術集団と産業地域社会』大明堂、1983
内田星美『時計工業の発達』株式会社服部セイコー、1985
大阪市役所商工課編『大阪市及其附近の工場分布状況』1917
萩原晋太郎『町工場から』マルジュ社、1982
藤田敬三「重工業における下請制」同編『下請制工業』有斐閣、1943

 産業化の時代の商業の営業形態に関しては、明治二〇年代の広島県で小売商の場合に店舗商は三七%であり、残りの大方は行商(六一%)であった、という梅村又次の報告がある。店舗商がふえ、都市に商店街が形成されるのは、いつごろ、どのようにしてであったろうか、今後考えてみる必要があろう。p.36

 こういうのは古い地図なんかを追っていけば分かりそう。確かに近世あたりでは卸問屋が店を構えていて、小売商の店舗は少ない印象。あと、現代でも店舗にこだわる必要はないのかもな。