「隠された水俣病 1-5」『朝日新聞』09/10/30-11/4

 さまざまな形で、分断・排除されてきた患者たちの状況を描く。第一回が魚介の流通による拡散、第二回が天草地域の被害、第三回が69年以降の時期による排除、第四回が被害者の移動、第五回がチッソ従業員の被害者について。様々な要因で、排除されてしまっている状況を明らかにする。
 魚介の流通や人の移動に即して調査をしてしかるべきだし、排水と止めたから即水俣病はなくなるなんて噴飯ものの話だ。逆に、「終わったこと」にして被害を拡大させている。チッソの中の人やその他の社会的要因や差別によって、救済が受けられない人も。なんというか、酷い。

「隠された水俣病1:山間の食卓にも汚染魚」『朝日新聞』09/10/30


 国鉄水俣駅を午前6時10分に出る始発の車内は、生臭い魚のにおいに包まれた。乗客は仕入れた魚をかごいっぱいにした行商人たちだ。
 1988年に廃線となった国鉄山野線。その列車は50-60年代、水俣駅から県境の険しい山をループ線で越え、55.7キロ先の内陸部、鹿児島県栗野町(現湧水町)までの地域に水俣の魚を届けていた。
 途中、同県大口市(現伊佐市)の薩摩大口駅で降りた行商人は、駅前に並べたリヤカーや自転車に魚を積み、田んぼの広がる盆地を回った。
 「アジやボラ、コノシロ。金を払う代わりに米と交換する家もあった」
 米盛敏行さん(61)は振り返る。福岡県出身。6歳で林業を営む親類の養子になり、大口で暮らし始めた。「当時、そうやって届く水俣の魚を毎日のように食べた」
 30代になると、体に異変が起き始めた。日本有数の金山、菱刈金山で働き始めてから1年後、「ら行」がうまく発音できなくなった。「鉱山の空気が悪いせい」と思っていた。ライターの火が指に触れても熱くない。55歳で鉱山を退職したころ、足元がふらつきだした。今年3月、転んで足首が腫れた。痛くなかったが、骨折していた。
 今回の住民健康調査の検診で、医師から「水俣病の症状が出ている」と告げられた。


 医師が持つ針が自分のひじから指先へと伝わっていくのを、50代半ばの女性はぼうぜんと見ていた。何も感じない。医師に「感覚がありませんね」と言われた。
 その瞬間、女性の脳裏に、魚売りの老人の柔和な顔が浮かんだ。
 水俣市の北東約40キロ。鏡町(現八代市)で生まれ育った女性は、小柄な老人の姿をよく覚えている。長年かついだてんびん棒の重みのせいか、腰が曲がっていた。
 老人は週に2、3度、不知火海で釣った魚を田浦町(現芦北町)から当時の国鉄鹿児島線に乗って売りに来た。その日は魚料理が食卓に並ぶ。アジ、イワシ、サバ、タチウオ。「田浦の魚は新鮮でおいしい」と家族で話していた。
 女性は74年、田浦町の農家に嫁いだ。漁師町で、ほぼ毎日魚を食べた。
 40代から手足がしびれ、つかんだ物を落としてしまう。コップを割ることが増え、調理のパートはやめた。
 同時期に手足のしびれを訴え始めた夫は2年前、「保健手帳」を受けた。水俣病患者とは認められないが医療費の自己負担分が補助される救済制度だ。女性は「よそから来た私には無関係」と思ってきたが、同じ田浦の魚を食べた夫に手帳が交付されたことで、申請を考え始めた。


 公害健康被害補償法(公健法)に基づく水俣病の患者認定や救済制度には、指定地域や対象地域が設定されており、その地域に68年以前に相当期間居住していることが条件とされる。大口市も鏡町も「地域外」。だが、米盛さんは検査後、抗議の意を込めて認定申請をした。女性も保健手帳申請した。
 メチル水銀に汚染された魚は、不知火海沿岸にとどまらず内陸や遠方へと行商で運ばれ、被害を広げたのではないか。60年代から学者や患者団体がそう指摘してきた。
 71年には患者支援団体の水俣病市民会議が「山間地を含めた住民健康調査を」と熊本県に求めた。だが「行商ルート」の調査は今も手つかずのままだ。
 女性は言う。「魚売りのじいさんに恨みはない。ただ、汚染魚がばらまかれていたと思うと、腹立たしい」


 なぜ、公式確認後53年たった今も、水俣病被害を訴える声が相次ぐのか。29日にまとまった不知火海住民健康調査の結果が照らし出す「隠された被害者」を追った。




「隠された水俣病 3:70年代出生 兄弟に症状」『朝日新聞』09/11/2


 兄は1971年生まれ。弟は72年生まれ。38歳と37歳の年子の兄弟は、国が「新たな水俣病の発生はない」とした69年以降に、熊本県水俣市の海辺の町で生まれた。
 民間医師らが9月に不知火海沿岸で行った住民健康調査の検診を、そろって受けた。兄の診断書には、手足の感覚が鈍いと記された。弟も同様の診断に加え、全身の感覚が鈍い、視野が狭いとされた。どれも、典型的な水俣病の症状。病名欄にはいずれも「水俣病の疑い」と記載された。
 2人とも、幼い頃から足がもつれてよく転んだ。食事のたびにはしを落とし、しつけの厳しい祖母にしかられた。
 弟は日に何度もひきつけを起こした。そのたびに顔がこわばり、全身が突っ張る。首から背中に痛みが走った。


 父は板前だった。店で余った不知火海産のボラやチヌ、岬で取ったカニを家族で毎日食べた。「子どもたちは水俣病たい。魚やカニを食べさすっとをやめんか」。祖父が見かねて注意したが、父親は「もう水俣病はないけん」と取り合わなかった。
 加害企業チッソが有害な工場排水を68年5月に止めたことで、水俣病は終わったことにされた。60年代の一時期に漁協が水俣湾などで実施した漁業の自主規制も解除され、兄弟が生まれた頃には「もう魚を食べても大丈夫、となっていた」と父親は振り返る。
 「水俣病は親の世代で終わり。自分たちの体の不調とは関係ない」と思い込んでいた兄。だが、水俣病はついて回った。結婚を考えた福岡市の女性の両親から「水俣出身はお断り」と反対され、別れた。遺伝する病気だという誤解に基づく差別だった。
 出身地を口にするたびに向けられる好奇の目。別の女性と結婚した後、子どもには嫌な思いをさせまいと、本籍を熊本市に移した。
 一方の弟。小学校の授業で、メチル水銀に侵されガクガクと震える劇症型の患者や、跳びはねる猫の映像を見た。同じ頃、母親から、魚をえさに家で飼っていた2匹の犬が狂い死にしたことがあると聞いた。兄が1歳当時だったという。授業で見た猫と関連づけて考えた。
 弟のひきつけを抑える薬はだんだんと強くなっている。午後6時、夕食後に飲むと動けなくなり、7時には就寝する。「すぐ転んで恥ずかしいから」と、なるべく他人と会わないように暮らしている。
 両親にも水俣病の症状がある。未認定患者の救済を図った95年の政治決着で、母親は一時金が出る医療手帳を受けた。父親はチッソ幹部が常連客だった店をたたんだ後、公害健康被害補償法に基づく患者認定を申請した。審査結果が出るのを待っている。
 95年ごろ、兄は検診を受けようとしてあきらめた。69年以降の生まれは補償や救済の対象にならないと知ったからだが、割り切れなかった。


 今回の検診を知り、弟を誘った。母親に話すと「これも調べてもらいなさい」と、2人のへその緒を持たせてくれた。水銀値が高ければ、胎児の頃に汚染を受けたことになり、69年以降も水俣病が発生し続けた証拠になる。
 弟は言う。「(補償や救済の)対象にならなければ裁判するしかない。おれが受けたこれまでの苦しみは何だったのって」。そうなれば、兄も覚悟を決めるつもりだ。「実名を出して、自分たちの存在をかけて闘います」