「植木町教委生涯学習課班長 中原幹彦 西南戦争時の官薩両軍の遺跡:至近距離の対峙示す出土状況」『熊日新聞』10/3/21

 昨年から今年にかけて、植木町滴水の山頭遺跡で官薩両軍の陣地跡とみられる遺構がきわめて近距離で確認された。130年以上前の実戦の様子が見て取れる重要な戦跡とみられる。調査にあたった植木町教委生涯学習班長の中原幹彦さんに戦跡の出土状況や意味合いなどについて寄稿してもらった。


 「きっと出るはずなので、出してください」。現場作業員さんたちにそうお願いしていた。植木の作業員さんたちの発掘技術は県内随一である。「雷管が出ました!」。現場からの一報が届いたのは、それから間もなくのことであった。
 薩軍陣地とみられる山頭遺跡第5次調査地第5区から出土した雷管は、最終的に200点に上るとみられる。雷管とは点火具。撃鉄の衝撃によって発せられた火花が銃身内の火薬に引火し、銃弾を発射させる。雷管は射撃ごとに取り付けられ、主に薩軍が使用したとされる前装式のエンフィールド銃などに用いられていた。つまり、200点の雷管は200回の射撃を意味する。
 一方、西側の第4次調査地2区では674点の当時最新の後装式スナイドル銃の金属薬莢が出土。最低でも674発の銃弾が発射されたことになる。ピストル薬莢も6点ある。ここでは撃ち込まれwた300点の小銃弾も出土し、激しく変形しているものも多い。出土品の桜紋の金ボタンや弾薬箱のネジ釘、薬莢種類の同一性の高さなどからみて、官軍の塹壕跡と考えられる。
 これらの出土状況からは、官薩両軍が浅い谷を挟んで50-100メートルの距離で対峙した状況を復元できる。直接に銃火を交えたと推定される両軍の陣地跡が、発掘調査によって確認されたのは恐らく国内初の例だろう。
 ここでの戦闘は、東側のやや標高の高い場所に陣取った薩軍が落ち着いていたようだ。官軍陣地では未使用の銃弾が109点あり、全体の14%を占めるのに対し、薩軍陣地では雷管の未使用はほんの数点にとどまる。金属薬莢の銃弾は構造上、不発はほとんどないとされているので、官軍はピストルをも使用する緊迫した状況の中で、銃弾を捨て置いたまま立ち去ったことになる。
 雷管が多数出土した場所の中央には幹回り170センチの柿の大木がある。あたかも、この木を盾にして銃撃を続けたかのような出土状況であった。試しに金属探知機で幹を探査すると、数カ所で反応があった。柿の木は戦闘をじかに体験したのだろうか。
 戦闘日時の推定は、現在のところ1877(明治10)年2月22日か、3月20日−4月1日の二つの説が考えられるが、まだ結論は出ていない。
 2月22日の場合、有名な植木向坂での乃木希典少佐の軍旗事件の日で、本格的な官薩両軍の緒戦の日である。2月説とする根拠の一つに、両軍陣地における薬莢の出土量と種類の相違がある。すべて同一規格の金属薬莢だった官軍陣地では単一種類の小銃使用が想定できるのに対し、薩軍陣地では雷管のほか金属薬莢も多数出土するなど、多種類小銃の使用が見てとれる。物資の欠乏に苦しんだ薩軍にしては多く、戦争初期の物資が比較的豊富だったときのものとも考えられる。
 3月説の根拠は、田原坂陥落後の両軍の衝突ラインとされる場所に、山頭遺跡が位置することである。向坂とはやや距離があり、西方250メートルには薩軍の重要拠点だった荻迫柿木台場がある。この付近は大規模な攻防戦が繰り広げられたところで、官軍は一度は敗退するが、後に台場を占領。薩軍は熊本城から撤退し、南に敗走していく。いずれの説にしても、山頭遺跡は大きな戦況の変化点の中にあると考えられる。
 考古学的手法による発掘調査は、その当時の姿を生々しく伝える力とその客観性から強い説得力を持ち、文献には記載のない個別具体的な戦争の実態を我々に教えてくれる。ここに考古学の強みがある。
 現在、植木町田原坂をはじめとした西南戦争遺跡群の国指定史跡を目指して、玉東町と連携しつつ各事業に取り組んでいる。多くの皆様方のご支援、ご協力をお願いしたい。

 西南戦争の古戦場に関しては、あちらこちらで戦跡考古学的な手法による調査が進んでいるけれど、両軍とも陣地が検出されるのは珍しいかも。
 互いの陣地の間が50-100メートルってのは、ずいぶん短い距離のようにも感じるし、この時代の銃の性能や射撃速度からすると不思議ではないとも感じる。このあたりはよく分らないな。間に浅い谷があって、白兵戦へ移行しにくいから、ここまで近づいた、特殊例の可能性もあるし。
 薬莢や雷管から、官軍・薩軍武装の特徴が改めて分かる点も興味深い。