陣内秀信『南イタリアへ!:地中海都市と文化の旅』

南イタリアへ! (講談社現代新書)

南イタリアへ! (講談社現代新書)

 久しぶりの再読。南イタリアの都市や都市的集落の造形的な面白さや生活文化を紹介する。古くからの都市文化を誇るだけに、イタリア人は都市での住まい方がうまいなと思う。
 イタリアでは、プライベートな居住スペースが小さく、住戸内で生活が完結せず、街路にもはみ出して生活している。本書でも頻繁に紹介されている。それが、イタリア都市の面白さを生んでいるが、日本ではそのような生活パターンがかつては存在したにもかかわらず、完全に廃れたなと感慨をおぼえた。藤森照信の『看板建築』(ISBN:4385359210)で紹介されている商家の間取りも、居住スペースが小さく、生活が外へはみ出しているように見える。また、長屋なども、そのような共同性を持つ居住パターンを示している。それに対し、現在の一般的な一戸建て住宅のモデルは武家屋敷なのかな。武家屋敷や農家などは、住宅の敷地内である程度完結性がある。そのような、住居の変化が、社会関係に変動を及ぼしたのだろうか。
 あと、紹介されている都市の中に、中世シチリア王国の歴史の舞台になった都市が多いのもおもしろい。モンテ・サンタンジェロやレッチェナポリパレルモアマルフィ。歴史と現在がつながるおもしろさ。

 その小さなスケールもおおいに気に行った。人口が旧市街に三千人、その外側に広がった近代の市街地に三千人、周辺農村部を含めた全市域で一万人ちょっとの小さな町なのに、立派な都市のような面構えをしている。だが、カテドラル(司教座聖堂)もないこういうちっぽけな町は実は、イタリア人にとっては都市の範疇に入らない。住民も自分の町のことを、チッタ=都市といわず、「パエーゼ」と呼ぶ。p.74

 このあたりの「都市」とそうでないものを分けるのは結構難しい。ここで言われているチステルニーノも人口規模でいえば、確かに「町」レベルだよな。にもかかわらず、城壁を備えている。石の構築物だから、日本人あたりには「都市」に見える。本書では、「ドゥオモ」がある、都市らしい都市が主体だが、『イタリア中世の山岳都市』(ISBN:4395003281)辺りでは、その辺があいまいになっている。しかし、チステルニーノやアルベロベッロ、プロチダのような、都市未満の集落の造形が非常に興味深い。

 都市政策で画期的なのは、歩行者空間がどんどん広がって、市民が町に繰り出すようになったことだ。車を締め出すと、犯罪も減る。かつては、バイクを使ったひったくりが横行していたのだ。チェントロ・ストリコの中心部が歩行者空間化し、乳母車を押す若い親やアイスクリームをなめながら歩くカップルなど、賑やかに路上を行き交う大勢の老若男女の姿を見ると、隔世の感がある。まだ油断は禁物とはいえ、カメラをもってナポリを安心して歩ける日が、こんなに早く来ようとは、想像もできなかった。p.18

 車と生活空間の相性の悪さ。現在の日本では、道とは車を通すためのものという原則が貫徹しているが、生活空間として見直せば、色々と豊かな空間ができるのではないか。少なくとも、そのような文化はちゃんとあるようだ。

「こころの風景:青木淳:橋は道の一部」『朝日新聞』06/11/8
 「コンセントがなくて不便」。1995年、私たちの事務所が設計した「馬見原橋」が開通したとき、そんなクレームを受けた。普通、橋にはコンセントはつけない。クレームの意味が、一瞬、わからなかった。
(中略)
 開通式の夜、もう一度、橋を見に行った。ゴザが敷かれ、宴会が開かれていた。川面を行く風が通る。上の橋が雨や日差しを遮る庇になっている。下には、清流の流れ。聞けば、夜になると、毎日、三々五々集まって宴会になると言う。コンセントをつけておけばカラオケもできてよかったのかな、と思った。

集い、語らう憩いの広場 馬見原橋(熊本県)
 こういうのを見ると、日本でも工夫すれば、人が集まる場というのは作り出せそうに思う。