大竹道茂『江戸東京野菜:物語篇』

江戸東京野菜 物語篇

江戸東京野菜 物語篇

 江戸時代から昭和初期まで、東京近辺で栽培されていた伝統野菜についてまとめた本。どのような野菜があるか、江戸東京野菜をめぐる流通や食生活について、現在行われている復活の試みなど、基本的知識がまとまっている。食生活については江戸時代の情報が多いが、野菜の紹介については明治以降に出現した比較的新しい品種が多い。江戸東京野菜は、農家が自分のところで種を採集する「固定種」が継承されている。明治以後も、品種改良や選抜が進んだ結果、現在残っている品種は江戸時代の野菜とは微妙に異なっているようだ。
 しかし、本書で紹介されている野菜の栽培を見ていると、なかなか手間がかかるものだ。江戸近郊は、消費先進地の近傍にあったため、手間と洗練された技術が投入されている。また、この手の採種ってのは、花に限らず手間がかかるものだ。適当にやっていると他の種と交配して雑種になってしまうし。
 そう言えば、「ヤミ米」で農政を突き動かした男 ドラッカーで読み解く農業イノベーション(2) JBpress(日本ビジネスプレス)という記事を最近読んだが、現在の生鮮食品流通は、大都市に規格品を大量に搬入することに特化しすぎているように思う。消費者のニーズに答えられなくなってきているし、資源をずいぶん無駄にしている。伝統野菜の復活運動というのは、そういうことへのアンチテーゼであるのだろう。
 関連サイト:
江戸東京野菜ネット
江戸東京・伝統野菜研究会
日本全国伝統野菜ネットワーク

 育種は藤助の子の庫太郎に引き継がれ、大正5年(1916)にはより早採りの「中野早春」が生み出され、昭和の頃まで静岡、千葉、福岡、鹿児島で栽培された。さらに庫太郎の子、慎一へと引き継がれ、60年間にわたり育種研究が続けられた。親子3代にわたる甘藍の品種改良は、日本での品種改良の基礎を築き、その功績は高く評価されている。中野家の地元、葛飾細田の稲荷神社には、「中野甘藍」の農業説明板が建てられている。p.44

 近代の「篤農家」の力のすごさというか、粘り強さというか。短気な私には真似できそうにない。

最大の難所は青梅街道の神田川を渡ってからの成子坂と帰りの中野坂上までの上り坂で、昭和17年頃まで、坂下の辺りで盛んに声をかけ、大八車や牛車の後押しをして駄賃稼ぎをする“押し屋”という連中がたむろしていたものだ。p.103

 どっかで聞いたことある話だなとおもったら、そう言えば『轍の文化史』(ISBN:4478240647)あたりに出ていたな。

 さて、噺に登場する「唐茄子の安倍川」。安倍川餅は、徳川家康が安倍川(現・静岡県静岡市)の近くの茶店に立ち寄った折、店の親爺が出した黄粉餅を喜び、名付けたとの言い伝えがある。上流で砂金が採れたことから、搗きたての餅に、砂金をイメージした黄粉をまぶしたものだ。
 唐茄子の安倍川は、カボチャを蒸して裏ごししたものに片栗粉か米粉を混ぜ、団子状にしたものをゆで、黄粉をまぶす。当時、唐茄子はご飯の代用食として食べたり、ほうとうのようにうどんと煮込むことが多かったが、安倍川も落語の題材になるほどポピュラーな食べ物であったようだ。p.104

作り方→http://kodomooyatu.blog9.fc2.com/blog-entry-61.html
    http://k-c-c.at.webry.info/200909/article_19.html
 後で作ってみようかな。

 一汁ニ菜のうちの一菜は煮物で、エノキ茸とサトイモを煮たものなどの野菜の煮物がほとんどで、もう一菜は揚げ豆腐、煎り豆腐、湯豆腐など、何日かに1回、イシガレイの焼き物などが出てきますが、魚はめったに出てきません。夜食はおかずが一菜です。幸弘公の日常の食事は毎日、野菜を中心とした一菜かニ菜のおかずに、ご飯、汁、漬物という組み合わせが続いています。
 記録に記されている9カ月間の日常の食材を集計したところ、特徴的なことは魚介類が少ないことですが「平かつを」というものはよく出てきます。p.133-4

 1800年頃の松代藩真田家のご隠居の食生活。日常の食べ物はお殿様も意外と質素。「平がつを」はぜいたく品だったようだが。伝統的な食生活って、基本的には主食と副食少しの、質素かつ単調なのが基本なんだよな。南米やアフリカあたりでは、今でもそうだけど。現在の日本の食生活が異常というか。