福田誠治『競争やめたら学力世界一:フィンランド教育の成功』

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

 うーん、まあそんなもんかってな感じもあり、これじゃだめだという感じもあり。
 フィンランドの教育やその理論的背景、PISAの学力観との関係については、有用であると思う。しかし、結局のところ、昔風の先進事例に追い付き追い越せのフォーマットから一つも抜け出ししていない感が。フィンランド固有の社会的文脈を抉りだせなければ、本当に日本社会を変える言論にはなりえないのではないか。常々、私はアメリカの社会や制度を参考にすべきでないと思っているが、同様にフィンランドも参照先としては不適当であるのではないか。フィンランドという小規模で、比較的均質性の高い社会での達成を、どのように変換すれば、格段に人口が大きく、多様性もあり、分裂している社会に応用できるか。そこを問題にしなければならない。日本では、新しい常識を形成するためには、動かさなければならない人間の数が格段に増える。比較的規模の大きな国民国家、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインあたりが、日本の社会を比較する場合、参照に適当であると思われるが、学力の問題に関しては、むしろ基本的には日本の方が成績が良い。
 あとがきに、本書の限界がくっきりはっきり表れている。フィンランド人とのやり取りをいくつか描いているが、

 「日本には、大量に『ニート』がいて、政府も頭を痛めている」
という話をすると、
 「それは何ということだ。信じられない」
 「働かないでどうして食べていけるのだ」
 「その若者はこれからどうしていくつもりか」
と矢継ぎ早に質問が返ってくる。これまたどうにも理解できないらしい。
 「親が食べさせているのです」
と言えば、
 「その親がいなくなったらどうするのだ」
と追い打ちがかかる。そのうえ、
 「どうしてそんな人間を日本の教育は育ててしまうの」
と、一種哀れみに似た表情がフィンランドの彼女たちの顔に浮かんだ。p.230

 ここのやり取りを読むだけで、この著者の社会に対する感覚の鈍さとフィンランド教育界の夜郎自大の気配を感じる。「ニート」=若年失業者であることを考えると、あまりに説明が不適切な上に、同様の問題はイギリスをはじめヨーロッパ各国に存在することを知らないではあるまいに。そもそも「ニート」という用語そのものが、イギリスの若年失業問題の用語を輸入したものであることを知らないのだろうか。というか、フィンランドでも若年失業率が低いわけではないようだが。
 むしろ、このやりとりにこそ、北欧の特殊性と日本との断絶が露わになっているように思う。北欧の福祉国家の制度が、国民を総動員する総力戦体制と裏腹の存在であること。二度の世界大戦と冷戦による大国の侵略に対抗し、独立を維持するために整備されたようだが、このような置かれた環境の違いをよく注視する必要があるのではないか。

…帰りの車の中で通訳の菊川さんが言い出した。
 
「日本でこんな話がありましたよ。インターネットの新聞記事で見たんだけど、ある高校生が禁止されている携帯電話を学校に持ってきたところ、ベルが鳴ったためばれてしまった。担任はとくにとがめ立てをしなかったが、クラブの先生が『連帯責任だ』と言って迫った。そこで生徒たちは『丸刈りにします』と決めて実行した。そしたら親がそのやり方にクレームをつけて、学校側が記者会見して、校長とクラブの先生が謝ってるの。おかしくって……」
 「……」
 「だってそうでしょ。決めたのは生徒でしょ。どうして学校が謝らなくてはならないの」
 「いや、そのやり方に度が過ぎたのじゃぁ……」
 「どうするか決めたのは、生徒じゃない」
 「でも、今までに、学校の指導に問題があって不満がくすぶっていたとか……」
 「子どもが決めたことに親が口出すことはないでしょう。子どものしたことが間違っていたら、子どもに言えばいいことでしょ。学校に言うことはない。しかも悪いことしたのは子どものほうで、学校じゃないでしょ」
 「……」
 要するに菊川さんは、生徒が決めたのならそれを尊重しろ、日本では大人がよってたかって子どもをいじくりまわしてダメにしている、と言いたいようだ。重ねて彼女は、教育方針さえ定まらずうろたえている日本の学校と教師にも、ふがいなさを感じているようだ。日本の教師は、教育の基本原理に立ち戻ってたじろぐな、ということか。
 自ら学ぶということは、学ばない自由も許され、失敗する可能性も、失敗から立ち直る可能性も含まれているということらしい。教師はそれをずっと見守っていて、生徒が必要になったときに適切な支援をする。教師は支援はするけど、決めるのは本人なのだ。日本の先生は「子どもを構いすぎる」のだ。
 「そんなこと言ったって、日本の先生は子どもをかまわないと不安なんだよ。良い教師とは、できるだけ子どもに働きかける熱心な教師だと思い込んでいるんだもん……」
と筆者が言っていると、菊川さんがさえぎった。
 「だって、私がなぜフィンランドに来たかというとねぇ……」
と話し続ける菊川さん。そうなのだ、ここには他人を利用して楽しようなどという者も見当たらず、フィンランド人は愚直に、自分で責任がとれることをひたむきに追及して生きている。アメリカン・ドリームを抱けとけしかける山師のような大人もいない。フィンランドは、落ち着いた、成熟した社会だった。p.231-2

 まさにここにこそ、本書の最大の問題点が浮き彫りになっている。他の社会に、勝手に理想を仮託して、自分たちの社会を批判する方法論。人間がつくっている以上、ユートピアなどどこにもありはしない。フィンランドにはフィンランドなりの、問題点があるに違いないのだ。そこに到達できなければ、単純にフィンランドではこんなことをしています以上のものにはならない。例えば自殺率をみると、フィンランドも結構上位にある。その社会の暗黒面まで踏み込まなければ、そこでの成果を他に移植することはできない。
 本書全体が、言わば、フィンランド社会が発信したいフィンランド教育の像から、一歩も出ていない。それこそが、最大の弱点なのだと思う。「ゆとり教育」が露呈したことは、どんなに高邁な理想を掲げても、社会の認識や他の制度がついていかなければ、絵に描いた餅どころか、有害な結果を生むということ。大学のブランド信仰とどう折り合いをつけるかというのが、日本での教育をフィンランドの方向に動かす場合には、重要なのではないか。いじm
 前半の丸刈りの問題にしても、日本においては生徒にルールを決める自由も、そうする発想も欠けている状態を忘れているのではないか。「権力」からの圧力を受けた状態での「決定」はどこまで尊重されるべきか。そのあたりの意思決定のプロセスをきっちり忘れているのではないか。


 最初にかなり厳しく批判したが、フィンランドの教育制度の概説として考えるなら、それほど悪くはない。あえて言うなら、大学における教員養成も取材しておかなかったのが欠点か。教員養成の課程で、どのようなトレーニングを受けているかというのは大事だと思う。
 第一章「PISAの測った学力」は、PISAの実際の問題を基に、どのような学力が測られているかを説明する。ちょっと見ただけで、ずいぶんめんどくさい感じ。普段学校で解く問題とは毛色が違っていて、苦戦しただろうなと思う。特に読解力については、自分の意見表明を求められるので、なかなか大変そうだ。面白かったのが、成人に対して実施された科学技術の基礎概念の理解度に関する質問。

  1. 地球の中心部は非常に高温である。
  2. すべての放射能は人工的に作られたものである。
  3. われわれが呼吸に使っている酸素は植物から作られたものである。
  4. 赤ちゃんが男の子になるか女の子になるかを決めるのは父親の遺伝子である。
  5. レーザーは音波を集中することで得られる。
  6. 電子の大きさは原子の大きさよりも小さい。
  7. 抗生物質バクテリア同様ウイルスも殺す。
  8. 大陸は何万年もかけて移動しており、これからも移動するだろう。
  9. 現在の人類は原始的な動物種から進化したものである。
  10. ごく初期の人類は恐竜と同時代に生きていた。
  11. 放射能に汚染された牛乳は沸騰させれば安全である。

の11問の正誤を問う問題。ごく基本的な問題である(と言いながら4番を間違ったわけだが)。日本の正答率は54%とかなり低い。「日本の教育では必要な知識の定着度が低い(p.42)」と指摘されているが、確かに、知識が身についていかないというのは、日本の教育の大きな欠点だと思う。
 第二章から第四章はフィンランドの教育の紹介。競争の排除、落ちこぼれを作らない、学校の事務量が非常に少ない、自発的な学習の重視、さまざまな背景の子供をなるべく統合しようとする考え方、福祉との結合などが特徴だろうか。ぱっと見る限り確かに理想の教育といった感じがする。ただ、いじめや差別など人間生活に付きものの摩擦はどう処理されているのか。最終的にはそれなりに貧富の差が出てきそうだが、そのあたりはどう処理しているのか。そのあたりの社会の負の側面とどう折り合いをつけているかにまで踏み込んでいないのが不満。制度的なアウトラインは把握できるが。
 第五章「世界標準の学力に向けて」は、PISAに表現される、OECDの教育観の形成について論じている。大半の部分において、教育理論の議論で、正直言うとチンプンカンプンだった。しかし、PISAに結実する教育観が、ヨーロッパのソフトパワー戦略の賜物であることは、明確で非常に興味深い。また、「世界標準の学力」というのは、文化の平準化、あるいは新たな差別の装置にならないかという懸念も感じる。
 フィンランドの教育について、アウトラインを得るのには手ごろな書物。だが、個人的にはもう少し突っ込みが足りない感じが残念。なかなか、フィンランドあたりだと、現在の教育観が国民の共通理解になるまでに、どのような紆余曲折があったのかを調べるのも難しいだろうし。ある面では、ここ20年ほどで行われた改革だけに、成果はこれから出てくるものとも言えるだろう。
 以下、メモ:

 日本の子どもたちは家庭で勉強しないわりには成績がよい。また、勉学意欲も低いにもかかわらず、不本意ながらも短時間で効率よく勉強し、平均点では好成績をあげている。これらの結果からすると、これまでの日本の学校教育の成果、したがって、日本の教師の努力の成果は高いといえよう。日本のマスコミは、まず、日本の学校と教師の快挙をほめたてるべきであった。もしここで、日本の学校の良さを壊して、教育を競争主義と市場原理に委ねるならば、アメリカ並の低学力しか約束されないだろう。このことは、国際データがはっきりと示している。p.15

 日本の教育はそれなりに機能しているという話。そもそも、アメリカやイギリスの教育や医療の制度はほめられたものではないのに、なんでかそういうのを導入しろという声が出てくる不思議。

 図1-3は、十八歳以上の成人を対象として実施された科学技術に関する基礎概念の理解度に関する国際比較調査の結果である。日本の教育が力を入れてきた分野であるにもかかわらず、日本の正答率は比較対象となった十七か国・地域の中では低い水準である。スウェーデンデンマークに比べれば、その差は大きい。
 日本の教育では必要な知識の定着度が低い。この事実は、日本人が、必要もない知識をたくさん詰め込んでいるのか、本当に必要な知識を知らないのか、あるいは学び方が悪くてすぐ忘れてしまったり、自分の生活や生き方に影響を与えていない、役立っていないということなのか。
 テストのための学習、入試のための学習では、学力は定着しなかったということだろう。「分数ができない大学生」「少数ができない大学生」とは、大学生の学力分布からみて小学生・中学生のころには計算はできたと予想される。二次関数の解の公式と同様に、使わなければ忘れてしまうということではないのか。テスト競争のための勉強をしていたからこそ「低学力」になったと考えるべきで、その逆ではないだろう。p.43-44

 先にも引用した科学的知識の定着の話。

 つまり、中等教育を進路別・学力別に学校を分けて行うような分岐型学校教育制度のほうが、全体としての学力は低かったというのである。そして、フィンランドスウェーデンは、どこの学校に行っても同じように学べる教育体制を作り上げている。このように、PISAの最大の功績は、平等と高学力とは矛盾しないと指摘したことである。学校や経済的背景を平等にすれば、国民の平均学力は高まるということを事実に基づくデータで証明したのである。これは、先進国の政治家や教育行政担当者たちの常識を覆すことになった。p.46

 つまるところ、大阪の橋下のような教育観は、出てきた時点で時代遅れだったと。この観点から見れば、日本の教育制度はなかなか良くできていたと評価できよう。私立中学の隆盛や中高一貫校方式への制度改革は、国民の全体利益からすれば良くないということになる。

 「フィンランドの学校は、できない人の底上げはするけれど、できる人は放っとくんです。だってできるんだから」
 インタビューの会話からすると、このことばが一番ぴったりとフィンランドの教育原理を言い当てている。しかも、そういう考えが市民の中にも行き渡っているという。
 「放っとく」というのは、特別のことをしないで、普通の教育をするということで、フィンランドではこの普通の教育が一人ひとりに個別に対応出来るようになっているということである。p.72-3

 「エリート教育」とか騒いでいるのとは全然違うのがおもしろい。個人的には「できる人間」は、先は勝手に勉強しておくべきであって、学校にどうせいこうせいというのはお門違いだと思うけど。あと、この教育観の形成過程というのが、教育学者が注力すべき問題だと思う。現在の日本では、教育観(に限らず社会の見方全般で)の分裂が顕著になっているなかで、どう統合し直すかが問題であろうし。

 大学に入学するには、大学入学資格試験の成績と、大学個別の入学試験の成績で決定される。大学の個別試験は、学部ごとに専門の勉強が可能かどうかが確かめられる。たとえば、先述のマッティ・メリ教授の説明によると、ヘルシンキ大学の教育学部では、大学入学試験は、ペーパーテスト、適性検査、個人面接の三つになっている。ペーパーテストといっても、知識の量を問うものではなく、本を一冊渡してそれについて一枚の紙に自分の考えを記述するというものだ。その中身を見て、教育に関連してそれまで学んだ知識や今後の学習可能性を読み取る。適性検査は集団面接である。その中で何を発言するか、発言のプロセスにどのように加わり、リードしたかをみて、教師としての適性を判断するという。発言できなかったり、何を言っているのかわからないというのではダメだが、一方的にしゃべりまくるというのもダメだ。そして個人面接では、子どもをどう考えるかから始まって、自分の研究計画まで確かめる。p.74

 フィンランドの大学入試。テストである以上、予備校で徹底的に分析されてしまいそうだけど、そのあたりがよく分からんな。選抜の方法については、竹内洋パブリック・スクール』(ISBN:)で描かれる、イギリスの大学入試と似たような方式だな。研究計画まで詮索されるということは、大学での学習に相当程度見通しを持っていなければならないわけで、そのあたりぼんやりとしたイメージで大学に入る日本とはずいぶん違う。

 「フィンランドの総合制学校がまだ建設途中であった一九七〇年代と一九八〇年代に行われた研究が示すところでは、また、PISAのデータが示すように、異質集団編成(heterogeneous grouping)が、できない生徒には最大の恩恵となり、逆にできる生徒の成績は集団編成方法にかかわらず同じであった」p.77

 つまり習熟度別編成なんかは意味がないと。

 企業家教育とか企業家精神というと、ベンチャービジネスを立ち上げるようなことを考えがちである。そのような面も含まれるが、フィンランドではごく日常的な、自営業の運営の仕方と一般的にはとらえられている。つまりサラリーマンではなく、トナカイを飼ったり、パン屋や花屋を経営したりするのは、帳簿をつけ、税金を払い、法的な規制を守り、社会的な福祉を受けるなど、社会の中で事業を自分たちがつくっていくという能力、技能、態度が必要である。それらを育成する教育なのである。p.101

 面白い。

 教師たちには、授業以外の負担は最小限にとどめられる。教師のノルマは、一般に四五分授業を週一五(小一、ニの担任)〜ニ三時限分である。それのみであるといってもけっして過言ではない。
 OECDの国際調査から、七〜一四歳児の総標準授業時間数を比較すると、フィンランドは五五〇〇時間程度で調査国中世界最低である(図2-4)。韓国も六〇〇〇時間を切っているが、日本では六〇〇〇時間を超えている。スコットランド、オーストラリア、イタリアは、八〇〇〇時間を超えている。したがって、授業時間数と学力は比例しているわけではない。問題は単に時間数にあるのではなく、教師が十分に準備し、体力・気力とも充実して授業に当たれるかどうか、あるいは子どもたちが準備段階の学力に達していて、元気に生き生きと授業に入っていけるかにある。教師も子どもも疲れていたのでは、授業時間数を増大したとしても効果は少ないだろう。p.102-3

教師の勤務時間
 さらに注目すべきは、OECD調査による「法定勤務時間に占める実際の授業時間の割合」という項目である。日本の教師は、最低に位置している。小学校では三〇%強、中学校では約二五%、高校では二〇%強しかない。韓国は、それぞれ五〇%、約三五%、三〇%強であって、日本の一・五倍程度、授業に時間を避けることになっている。(図2-5)。最も多いスコットランドになると、六五から七〇%あって日本の倍以上である。法定勤務時間は、日本が一九四〇時間、韓国が一六一三時間、スコットランドが一三六五時間である。p.103

 日本の教員が過剰な事務負担を強いられている実態。なるべく事務負担を軽減する方向で、作業を見直す必要があるし、そのための行動研究が必要なのではないか。特に、フィンランドは教員が事務をしない、事務職員も少数で、このあたりの事務負担をどこに回しているのか、日本と比べると書類仕事がどう違うのかという点に注目すべきだと思う。
 これに関連して、日本の教員はクラブ活動に時間を取られていると思われるが、このようなクラブ活動がいつから始まったのかというのは興味深い問題だと思われる。学生のスポーツ活動・文化活動が、教員のいわば「ボランティア」におんぶにだっこされている状況は、健全とは言い難いように思うのだが。

 それでは、「社会構成主義」とは何だろうか。
 まず、「構成主義(constructivism)とは、知識には何らかの目的・価値観が前提になっていることを認める立場である。すなわち知識は、目的に応じて事実から切り取られ、構成されるということである。事実は一つだが、知識は多様に作り出される。知識について真偽を問うことはできても、誰の知識も完全ではないということだ。
 構成主義を教育学に応用すると、学習とは知識の重要ではなく、知識を探求し構成する主体的な活動であるということになる。そこで学習とは、子どもや若者あるいは大人が「自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動」トとらえるべきだということになる。知識は、自ら学ぶ者が事実を分析・探求して、自分なりに作り上げていけということだ。たとえば、環境問題に関する知識でも、何をテーマにどのくらい学ぶかは、教師と子どもたちの具体的な協同作業で決められていくということになる。歴史の学び方も年表を順々に覚えるというものではなく、自分で歴史を調べ重要事項を自分で判断し、自分で年表を作り上げていくことになる。
 そんなことをしたら、子どもたちの知識は穴だらけになるのではないか。そのとおりである。だが、教科書に載っている知識もじつは穴だらけなのである。それは、教科書の執筆者がよかれと思って並べた知識にすぎない。p.114

 うーん、このあたり社会理論に詳しくないと、なんとも。少々極端な気も。ミニマムというのはあると思うし。まあ、日本でも前述のように知識の定着率が低い現状を考えると、客観主義には限界があるのだろうけど。
構成主義の学習理論
社会構築主義 - Wikipedia

 そして動きまわってしまう子には、動きまわりたくなったら「自分の集中できることをやる」という約束事を決めることもある。このような約束は、学級作りの一環として解決できる。たとえば、新学期が始まると、「クラスの約束事」をクラス全員で決め、署名をしたりして、公式の文書として作成する。その約束事の中に、「クラスを居心地良くする」「クラスの仲間が心地よく学習できるようにする」「個人が落ち着いて勉強できる環境にする」「友達を不愉快にしない」「お互いを助けてあげる」などがあって、その関連で自分は何をするか、具体的に生徒と教師が約束事を決めるようである。
 この実施は教師にとっては日々教育であり、ある教師は授業が終わって解散して帰る前に、「今日の○○における○○の態度が非常に悪かったから、先生は非常に不愉快であった」と生徒に抗議し、何がどう悪くて、どういうことを自分たちがやってしまい、今後どういう処置をすべきであったかと生徒たちに考えさせることをする。考えさせるだけでなく、意見も出させる。フィンランドでは、ものごとを自分で考えるという教育が、教科の授業だけでなく、学校生活全体で、日々展開しているのである。p.127-8

 面白いなあ。誓約団体的な伝統というか、ルール形成の伝統というか、そんなものが見えるようだ。日本でいえば、一揆の起請文や村掟的なルール形成のやり方と言うべきか。フィンランドでは、子供のころから、主体的にルール形成を行うように要求されるということなのだろう。それが、前述の丸刈りの問題の認識の齟齬に行きつくのだろうな。あと、「教師が子供に抗議する」というあり方が興味深い。教師側が不当な抗議を行うなど、何らかの紛争があった場合には、どのような対応がとられるのだろうか。日本では、教師が権威的な立場にあり、それに親が介入するという形で紛争は進むわけだが。フィンランドではどうなっているのか。生徒間の申し合わせに、明らかに問題があった場合は。

 韓国では、できがよい生徒は方策を立てて計画的に、強い自己コントロールのうちに学んでいる。だから点数が高い。だが日本では、高得点の生徒も低得点の生徒も、ともに無方策である。言い換えれば、高得点の生徒の多くの部分が無方策であるといえる。つまり大まかに言えば、日本の子どもたちは、学校や塾の教師の言うとおりに勉強しているだけで、自らの計画はあまりなく、それほど自分の頭を使っていない、「指示待ち人間」だということになる。ではフィンランドでは、どういうことになっているのだろうか。筆者の解釈では、数学の不得意な子もそれなりの意図をもって、いろいろなことを学んでいるということになるのだ。p.131-2

 このあたり結構昔からだと思うし、日本社会がそういう人間を要求してきたということもあることを忘れてはいけない。いい年寄りが自己コントロールに欠けているところを見ると、そのあたりかなり昔からの問題だと思うけど。

 OECD教育局のシュライヒャー指標分析課長は、PISAが示したこととして、次のようなことを指摘している。
 「OECD地域の生徒の社会的背景と成績の間には強い関係があるということ。これにはがっかりさせられます。というのも、私たちは理想的には、その社会的背景にもかかわらず、すべての生徒に平等の機会を与えることを保証したいと考えて努力してきたわけです。しかし実際には、それはあまり成功してこなかったわけです。そのような家庭の下に生まれたかが大きく問題となり、それが学校での成績に大きな影響を持っているのです」p.189

 家庭の貧富や階層が成績に影響するという問題はなかなか克服しがたいだろうな。フィンランドでは「社会的背景の影響がずっと小さい」そうだが、このあたり、どの程度リソースを突っ込んだか、あるいはもともと比較的均質なのか、人口が少ない社会では小回りがきくからなのか。分析していく必要があると思うが。

…実質的にヨーロッパ中心に展開していたことをうかがわせる動きである。
 DeSeCo計画は二〇〇二年末に作業を終え、最終報告書はその翌年、二〇〇三年に刊行されている。
 この計画の作業過程を見ていくと、関連分野の厚さと関連分野の広がりから、先進国の間に極めて高い社会的合意を得て、否定しにくい教育理論を作り上げていったことが分かる。いわば「学力の世界標準」を作り上げるような流れをを作り出しており、この流れはもはや逆戻りすることはないだろう。p.202

 うーん、この「学力の世界標準」が新たな差別の道具になりそうにも思える。少なくとも、文化的多様性の否定になりそうな気が。極めて「エリート文化」的な性格があるのではないだろうか。

 PISAが理解する「省察」とは、一つには「自己の思考や行動を吟味する」という「メタ認知能力」の意味合いがあり、また一つには「二者択一を超えて」と表現されるように単純な即断ではなく、「ねばり強く考える」「熟考する」という意味がある。この両者とも、「比較的複雑な精神過程」である。
 まず、前者でいう「省察」とは、自分が「自身を客体とするような思考過程の主体」となること、つまり自分の思考や行動を(高いところから)観て考えているもう一人の自分がいるということである。そのおかげで、自分の行動や思考を自己の行動計画や社会的な脈絡の中で意義づけ、評価し、調整して、さらに続行したり変更したりできるのである。また、この評価・調整の機能があるからこそ、充実感・満足感を味わったり、責任を感じたりするわけである。このような「省察」は、「思考について思考する」という「メタ認知技能」のはたらきと考えられ、「創造能力や批判的姿勢をとること」を意味する。
 PISAはとりわけ、この力こそ社会性を生み出すものだと見ている。
(中略)
 しかもここでいう社会性とは、社会的圧力に不本意ながら従うというような適応的な行動ではなく、社会的圧力から離れて、自分の独立した判断で、自由に行動することを意味しており、このような自由が許されていて初めて自己責任が問われることになるというのである。個々人が、社会を批判したり、「異なる展望」を持つことまで含んで自律した人間が想定されていることには、とくに注目すべきであろう。民主主義とは、集団に埋没しない強力な個人を前提にしているということだ。PISAは、そのような個性豊かな個人を育てようとしている。p.218-9

 うーん、これは昔風の「市民社会」「市民」を彷彿とさせる感じだな。国民全体に、このような能力を要求するのは難しいのではないだろうか。人間の強さの限界というのを、もう少し注意して考える必要があるのでは。