山之内克子『ハプスブルクの文化革命』

ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)

ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)

 挫折したとして軽視される「オーストリア啓蒙思想」を、生活史的な側面への影響から見なおした著作。マリア・テレジアからヨーゼフ二世の時代、1760-80年代に、余暇と娯楽が大きな変動を経たこと。さらに、ひとくくりにされがちな二人の君主それぞれで、大きなコントラストがあることを明らかにする。
 労働や娯楽、信仰などが、時間的・空間的に整然と分離されていなかった伝統的な生活感覚を近代的に再編しようとする動きが、娯楽の改変を通じて追及された。また、マリア・テレジアバロック的伝統を維持し、スペクタクルを重視し、臣民を受動的な位置に置こうとしたのに対し、生粋の啓蒙主義者であったヨーゼフ二世は、宮廷の祝祭を廃し、私的親密圏をを主体にした合理的な社会を展望した。その結果、身分制の形骸化と「モード」の形成など、他の都市では19世紀に起きた「市民化」が、ウィーンでは先駆的に起きたことが指摘される。政治的には挫折した啓蒙専制主義的な改革は、こと日常的な価値観の面では大きな影響力を持ったと指摘される。


 本書を読んで面白く思ったのは、カトリックというか、伝統的な社会の信仰と娯楽の渾然一体とした様が、日本の江戸時代の物見遊山に代表される文化と近似していること。遊山文化が、現在娯楽の側面を強調して言及されるが、逆に信仰方面からのアプローチというのもあり得るのではないかと感じた。
 95ページから98ページで言及される、ヘルナルスの巡礼山などは、まさに江戸庶民の遊山の場、浅草寺やもう少し離れた場所と比較できそうに思える。さまざまな階層の人々が、信仰と娯楽を求めて集っていた。


 以下、メモ。

 読書や議論、そして、豊かな知識に価値を置く教養理想に代表される近代市民の価値体系は、十七世紀末以降、啓蒙思想の波及とともに醸成されたものであった。しかし、十八世紀末になると、プロイセンを中心とする北部ドイツの知的エリートを中心に、もともとはコスモポリタニズムと人文主義に裏づけられていたはずのこの理想系が、政治的にいまだ統合されないドイツ諸邦を精神面で強く結びつけるイデオロギーとして、徐々に先鋭化されたのである。すでにフィヒテにいたる以前に、ドイツ語とドイツ文化を拠り所とする排他的な民族意識は、少なくとも文学や言語をめぐる議論のなかに確実に存在していた。
 ニコライらの旅行記、そして、ウィーンの社会文化に対する激越な批判もまた、あくまでこうした文化史的文脈のなかで理解されるべきものなのである。大航海時代の航海者たちが植民地の獲得という任務を追ったごとくに、十八世紀末ドイツの知識人旅行者もまた、単一の世界観と精神文化を観察の基準とすることによって、ドイツ各地の内的差異を解消し、これを統一文化圏として結んでいくという、明快な政治的ミッションをもっていた。生活習慣から宗教のあり方にいたるまで、いっさいの逸脱を許容しようとしない厳格な価値判断は、「高い精神文化を通じて実現されるドイツ民族の統一」という、彼らの共通概念によってもたらされたものにほかならない。p.48

 ドイツの啓蒙主義ナショナリズムの関係。日本における「大和民族」などの概念と似たような風情を感じるな。

 さらにまた、今日、しばしば十七・十八世紀の基底文化のひとつとして扱われるこれらの祝祭が、当時の君主と宮廷人にとって、単なる楽しみや享楽をはるかに超えた、重要な社会的意味をもいっていたことを、ここで改めて強調しておきたい。祝祭の時空は、宮廷社会における価値観と規範、また、宮中における職務と位階のヒエラルキーを、構成員が相互に確認し、また、被支配者および国外の人びとに適切に評価させるための、まさしく格好の媒体であったからである。
 たとえば、皇家の祝事にあたって挙行される数日がかりの祝典では、行事そのものに前後して、参加者、プログラム、上演された祝祭劇の内容と舞台装置などが、上質の銅版画入りの美装本にまとめられ、ヨーロッパ各地の宮廷に贈られるのがならわしであった。直接行事に参加できなかった遠隔の人びとにも、祝典の壮麗さを正確に伝えようとしたこれらのメディアは、宮廷祝祭の顕示的行為が、決して一回的、地域的なレベルに終始するものではなく、永続的、広域的なプロパガンダとして作用しえたことを示唆している。バロック期を通じて、宮廷祝祭は、支配者層が自らの存在価値を顕示するための主要な表現形態として発展し、洗練されていった。p.60-61

 祝祭の機能。

 カーニヴァル期間の「さかさまの世界」は、一方で、伝統的に、不満や情念の定期的な「ガス抜き」、すなわち、秩序を維持するための一種の社会的「安全弁」としての機能を負っていた。しかし、他方、この祝祭は、その時間的・空間的枠組みのなかで、日常世界では不可能な、激しい体制批判や政治・社会風刺を可能にするものでもあった。そして、ここで既成の秩序への攻撃に対して許された「フィクションの枠組み」が揺らぐとき、それはつねに「さかさまの世界」を現実のものへと変換する危険を意味した。実際に、カーニヴァルをはじめ、仮面をともなう祝祭は、歴史のなかでしばしば、都市騒擾や反乱、さらには社会における制度的変革の契機となっていたのである。p.83

 カーニヴァルの機能と危険性。

 労働時間がほぼ非睡眠時間に一致していた前近代の社会は、依然として集中的な労働パターンを知らなかった。季節によって、約十三時間から十七時間を工房や店舗、農地で過ごした人びとは、この長い時間を、飲食はもちろん、礼拝や散歩、その他さまざまな娯楽や雑用によって中断するのが習慣となっていた。余暇の概念が成立する以前の社会には、労働時間も余暇も、独立した時間帯として確保されてはおらず、日常生活を構成するさまざまな行為は、時間的にも空間的にも渾然と入り交じっていた。北部ドイツでも、宗教改革以降、しだいに労働の集中化が進展していたとはいえ、労働と祈りに人間存在の意義をみたルターの理想を受けて、十八世紀半ばにいたるまで、ミサや礼拝への参加は、労働を中断するための十分な理由となりえたのである。
 このような社会では、労働の純化・効率化がいまだ進捗せず、同時に娯楽もまた、独立した行動目的として認識され追求されることは決してなかった。人びとが「楽しみ」、「気散じをする」のは、教会やツンフト(商工業者の職業別組合)の行事など、信仰や職業にかかわる、何らかの「名目」があってのことであった。p.93

 前近代の時間意識。目的別に画然と分けられていなかった状況。実は、日本人の意識も、半ばこういう切り分けが進んでいないのではないかと思ったり。ダラダラ仕事をして残業するとか、逆に果てしなくプライベートな時間を削って仕事をするとか。明確な切り分けが存在しないからこそ、そういうことになるのではないだろうか。

労働の時空へと「はみ出す」娯楽
 グレッファーが示唆するように、「見たい」という情熱に支えられながら、「非娯楽」の時空のなかで展開される娯楽こそ、少なくとも十八世紀後半までは、ウィーンにおける余暇パターンの最大の特色であった。都市民の「物見高さ」は、しばしば彼らを他者の日常行為の「見物」へと駆り立てたのだ。
 たとえば、臣民の労働効率化を極端なまでに追求した皇帝ヨーゼフ二世のもとで、服役中の罪人たちが、道路清掃や運河の貨物船牽引に駆り出されたとき、彼らの作業もまた、都市に新たな見世物の可能性を提供することになった。とりわけ、かつて高位にあった人物が囚人服で清掃に励むさまは、人びとのあくなき好奇心を刺激してやまなかった。日々の生活のなかで慣習的に行われたこの種の「見物」は、一方では都市民の「楽しみ」の大きな部分を占めていながら、他方では、彼ら自身、これを独立した「娯楽」としては決して認識していなかったはずである。
 また、ときに負傷者や死者を出して、市当局の規制の対象となった「牛追い」は、こうした伝統的な都市の娯楽パターンが、つねに、暴力と無秩序へと発展する可能性を内在させていたことを明示している。時間的にも空間的にも境界をもつことなく、いたずらに高揚する都市民の情動は、支配者と政府にとってきわめて制御困難なものであり、十八世紀後半の娯楽政策がこれらの管理のために最大の努力を払ったことは、当然の帰結であった。p.104-5

 こうして、娯楽は、ときとして、信仰や労働時間を侵食しかねない行動要因でさえあった。たとえば、教会堂開基祭や歳の市において、数週間から半年分の稼ぎを数日間の飲食や見世物のために遣い果たすという都市中下層民の行動様式をみるとき、当時、労働ならびに娯楽に対して、近代以降とは全く異なった社会的位置づけが与えられていたことが改めて想起される。
 オーストリアで一七四〇年代に着手された啓蒙専制的な改革政治のプロセスにおいて、こうした伝統的生活様式が、まず、経済効率の観点から激しい批判を浴びたことは、すでにふれた。たとえば、ゾンネンフェルスは、一七六五年に著した官房学の教科書で、臣民の非合理的な生活形態のなかで浪費される「時間」を具体的な金額に換算し、それが国家に及ぼす経済的損失の深刻さを強調しようとした。p.107

 時間と空間の分節化の動き。