西和夫『建築史に何ができるか:町並み調査と町づくり』

建築史に何ができるか―町並み調査と町づくり

建築史に何ができるか―町並み調査と町づくり

 場所や時系列に沿って、以前書いた文章を配置した本。読み始めて、「何だ再録本か」と思っていたが、これが意外と面白かった。その時々、場所場所で考えたことが、つながっているような感じ。
 調査を通じて地元の人に、その建物・町並みの価値を再確認してもらうこと。人々が大事に思うものこそが「文化財」であるなど、非常に感銘をうける考え方が多い。

 都市景観は、都市設計上の素材であると同時に人々の心の中の財産でもある。絵や彫刻と違って、いつでも、誰でも見ることのできる財産である。景観の所有者は市民全員であって、建物の所有者だけが景観の所有者ではない。所有者は仮に建物を壊す権利があるとしても、景観を破壊する権利はない。
 景観が市民共有の財産だとすれば、それを保全する義務もまた市民はもつことになる。都市をよくするためのデザインを、市民は常に心掛ける義務を負う。
 あなたが町を、水辺を、緑の森を、あるいは寺社などの歴史的建造物を見て「素晴らしいな」と感じたら、それはすべて優れた景観であり、あなたはそれを所有し、保全する仲間の一人にすでになっている。横浜をよりよくしていくデザイナーの一人になっている。p.198

 ここにこそ、著者の主張の重要な部分があるのだろうな。いろいろな人を巻き込んでいくこと。逆に、それが難しいし、資本の論理に対抗するには法的にも日本の現状は厳しいわけだが。

取り壊し論理の問題点
 右に挙げた例は、たまたま私が関与した二例にすぎない。しかし決して珍しい例ではなく、保存に取り組む人たちがあちこちで出会う例に違いない。右の二つの例に見られる取り壊しに関する論理を整理すると、次のようになるだろう。
 一、大事なものが指定される。
 二、指定されたものは大事である。
 三、指定されていないものは大事ではない。
 四、指定されていないものは壊してよい。
 一も二も、それ自体間違ってはいない。問題は三である。二から短絡的に三が導き出されるところが間違っている。そして四は、三が間違いだからこれも正しくない。にもかかわらず実際には、一から四の論理で壊される建物がなんと多いことか。
 試みに、この論理が正しくないことを多くの人に話してみた。すると驚くことに、四がおかしいことには気づくが、一から四への展開のどこがおかしいのか、よくわからないと言う、二から三を導き出すのがおかしいのだと説明しても、それでもよくわからないと言う。


指定されるまでは指定されていない
 そこで私は、次のように説明することにした。
 「どんな大切なものも、指定されるまでは指定されていないのですよ」
 これだけでは少々わかりにくいようで、こう説明してもしばらくはきょとんとしている人が多い。しかし、しばらくして「なるほど」と膝を打つ。
 指定される以前は、どんなに大切であろうと、当然のことだがまだ指定されていない。では、指定された途端に価値が生じるのか。そんなことはない。価値はそれ以前からあった。だから指定されたのだ。つまり、指定されているかいないかだけで価値判断はできない。指定されていようといまいと、価値のあるものはある。
 ここで質問が出る。
 「でも、指定されていないものに価値があるかないか、素人にはわかりませんよ」「何を残すべきか、大切にすべきか、それをどうやって決めればいいのですか」
 私はこう答える。
 「みなさんが自分で大事だと思うもの、それがすなわち価値のあるものです。それを文化財だと思ってかまいません」
 一般の人が自分で大事だと思うもの、それが文化財だと考えたい。もちろん、国あるいは県や市などの自治体が指定したもの、それも文化財である。しかし、それだけが文化財だと考えている限り、「指定されていないから大事ではない」という考えが常に出てくる。それに対抗するには、自分たちが文化財だと思うもの、それが文化財だ、と考えるしかない。そう考えて初めて、身近なもの、どこにでもあるもの、それを大切にしようとする考え方が出てくる。p.212-4

 ここも重要。指定の有無が取り壊しの旗印になっている現状。同潤会アパートや平戸の観音堂の事例から。実際の文化財の概念の問題。問題は、その価値と言うのも、多くの人には認識してもらえないことかもしれないが…


 以下、メモ:

三つの項目を文化庁は説明として書いております。一つは国土の歴史的景観に寄与していること。国の歴史的景観、これに寄与しているかどうか。それをもう少しわかりやすく説明してくれています。たとえば、特別な愛称などで広く親しまれている場合。赤レンガの建物とか、屋根が赤い家とかそういうみんなが認識できているもの、こういう意味です。みんなって誰か。町の人です。町の人たちが、「赤い建物」「ああ、あれね」と言えるようなもの、これが基準なのです。それからその土地を知るのに役立つ場合。あそこに建っているあの赤い家、あそこを曲がっていくとね、というような、その土地の様子を説明するときにみなさんがお使いに建物。それから三つ目には、絵画などの芸術作品に登場する場合。これは絵画というよりはたとえば小説に出ているよとか、誰かの歌に出ているよとか、そういうものを指すようであります。p.49

 登録文化財制度の話。ある意味、非常に緩いというか、ランドマークは指定の対象になりえるという話。ただし、築50年以上。

 復元された足利学校は今ではすっかり落ち着いたたたずまいを見せ、江戸時代の姿に近づいてきたかに見える。足利市はその後、学校から駅への道路やその周辺の整備を行い、復元建物が町づくりに大きな影響を与えることをよく示す例となっている。
 建築史研究室の卒業生・山田由香里氏は「足利学校の現在」について以下のように述べている。「復元されてから十八年たった足利学校を平成二十(二〇〇八)年五月の連休に訪れると、入口では見学者が途切れることなく入場チケットを買い求め、方丈に進んだ見学者は靴をぬいで畳に上がり、庭園の新緑を眺めながら、建物を吹き抜ける風に往時の学校の息吹を感じていた。鑁阿寺で大祭が執り行われているいることもあり、見学後は鑁阿寺に向かう人も多い。学校と鑁阿寺を結ぶ石畳の通りを、店先の駄菓子、和物雑貨、お土産を覗きながら歩いていく。着物姿の店員とのやりとりが一層楽しい。
 このように足利学校周辺ににぎわいが出てきたのは、復元後に進められた周辺環境の整備による。復元完成時に石畳は整備されていたが、今ほど人通りはなかった。足利市都市計画課課長が『月刊地域づくり』(一九九八年八月号)に寄せた報告によると、石畳整備後、沿道の建物を新築や改修する際は歴史的な雰囲気にしてほしいとお願いして回り、昭和六十二(一九八七)年からは修景に補助を出す制度も整えたという。また拠点施設として、平成五(一九九三)年に観光駐車場と案内所「太平記館」が足利学校南東に、平成十五(二〇〇三)年に足利織物の展示体験施設「足利まちなか遊学館」が学校様通り入口に整備された。
 行政による石畳や建物の整備と合わせて、商店街や住民による活動も見られる。石畳の途中に茂右衛門蔵と名づけられた安政五(一八五八)年建造の土蔵がある。説明によると、取り壊しの方向にあったのを地元の三自治会と町づくりクリープが保存と活用を市民の手でと呼びかけ、平成十三(二〇〇一)年に蘇らせたという。命名は活動を行った四団体によるもので、足利織物を広めた小佐野茂右衛門(一七六二〜一八四〇)にちなみ、土蔵を市民ギャラリーとして運営しながら足利の歴史と文化の中心であるこの地域の輪を広げていきたいと宣言する。また土蔵の向かいに建つ大正時代の邸宅は平成十四(二〇〇二)年に国の登録有形文化財になるなど、石畳沿道の歴史の見直しが進んでいる。近年は若い人がこの地を選んで出店するようになり、週末のお店めぐりの場所としても足利は人気がある。p.117-8

 建築を復元することの力。ただ、単純に建物を復元するだけでなく、地域全体として環境を整えて、初めて人を集めることができるようになる。行政や住民が、積極的に活動することの重要性。
 熊本市では、本丸御殿を始め、熊本城の整備・復元が行われているが、これが市街地に波及してこないのが苦しいところ。どうしても茶臼山の上だけになってしまうというか。行政にも城下町全域をにらんだ仕掛けはないし、住民側でも町並みに対する認識がない。難しいものだ。

 建築の世界もご多分に漏れない。歴史を背負った建築を一生懸命破壊した。木造は火に弱いという迷信がこれを助けた。木という素材は、使い方さえ間違わなければ決して火に弱くはない。むしろ自然な素材だけがもつやさしさ、軟らかさがあり、実に優れた素材なのだ。p.121


 「どんな重要なものも、指定される前は指定されていないのですよ」
 では指定されて突然価値が出たかと言うと、そんなことはもちろんない。指定されていようといまいと大切なのだ。だから、「指定されていないものも大切にしましょう」。
 でも、「全部が全部大切と言われてもねえ」と言う人にはこう言いたい。あなたが大切だと思うもの、それが文化財です。それを大切にしましょう。これこそ文化財の究極の定義だ、と私は思っている。p.218-9

 「平針・里山伐採イニシアティヴ」を、年表にまとめてみた。なんてのを見ると、「あなたが大切だと思うもの、それが文化財です」という概念もむなしくなるがな… まさに「文化財」だったものが、あっさりと破壊される。


荒川区汐入では白髭西地区の防災という都市計画のために長屋を壊し、住民を高層アパートに移した。すると階下に降りるのが面倒臭いと言う。隣近所もなくなってしまった。最初の年に盆踊りを見に行ったら地面の代わりにベランダで送り火を焚いている。わが町では迎え火や送り火をまだ焚くし、かごに乗せた果物とかも売っている。何か大事なものはそのあたりにあるのではないのかと思います。p.226

 森まゆみ西和夫対談の一節。そう言えば、川辺川ダムの計画で五木村の住民が、代替地に移転させられた。そこで新しい家に移ったら、互いに行き来しにくくなって、コミュニティが失われたという新聞記事を読んだことがある。基本的に宅地開発のパターンに、このあたりの行き来しやすさというのは考えられていないのだろうな。最近は、多少風向きが変わって、最初からそのあたりを考慮するようになっているようだが。


私の場合、十八年前に、谷中の人に、どこで生まれ、どんなところで何をして遊び、どこに木があったとか、この道は何と呼んでいたとか、何が好きかと聞いて、青焼きの地図に落とし、一番好きなもの調査をしました。お寺が静かで落ち着くとか、読経の声を聞くのが楽しみだとか、お茶を煎る匂い、畳屋さんの前を通るときの匂いが好きだとか。一般に役所は、交通の便がよく、ガラス張りの駅ビルにしゃれやテナントが入り利便性が高い町を住みやすい町と言いますが、住民はむしろ五感に訴えるところを好んでいる。歴史的に意味があるから保存という考えもあるけれども、今住む人にとって気持ちのいい、居心地がいいという基準で、地域の古いものを大事にするという考えが出てきます。p.229-30

 これは大事だと思う。五感に訴える場って意外に少ないんだよな。