石井常雄『「馬力」の運送史』

「馬力」の運送史―トラック運送の先駆を旅する (東ト協Books)

「馬力」の運送史―トラック運送の先駆を旅する (東ト協Books)

 モータリゼーション以前、昭和の馬車輸送についての歴史の本。著者は馬車輸送業者の家の出身で、交通論を講じた学者。それだけに自分の体験から発した重みがある。個人でも史料の蒐集を行っているようで、馬車や馬具、文書などの自家所蔵の史料の写真が紹介されている。
 対象は馬力輸送が繁栄した小名木川界隈と、著者の実家があった池袋駅西側の池谷戸の馬力運送業者の集落が中心。前半は、馬力輸送業のよすがを求める紀行的なもの。小名木川周辺の工業地帯に展開した近距離輸送や池袋貨物駅の貨物取り扱いを基盤に経営された池谷戸の業者たちについて。あとは手押し車やリヤカーについて。
 後半は大正末から昭和にかけての歴史。主に、行政資料を中心にした話。
 関東大震災による鉄道輸送網の壊滅のなかで、馬力輸送が活躍。行政関係者などから脚光を浴びること。その結果の、いくつか行政側での研究が行われる状況。
 続いて、戦時体制のなかでの輸送業の統制の議論。戦時統制のなかで、国策会社日本通運に統合されていく動き。行政側の調査記録の話や輸送能力の逼迫。戦後、トラックや燃料の不足のなかでの馬力輸送の活躍、特に日本通運での馬の保有量の話。その後の、モータリゼーションのなかでの畜力輸送の消滅へ。
 著者も強調しているが、零細業者が多かったせいか、実際に関わった業者の史料が少なく、本書でも生業としての運送業についての情報は少ない。こればかりは、かつての業者を訪ね歩いて、帳簿や写真、証言を粘り強く集めるしかないのだろう。今となっては、生存者もずいぶん減って、ごく末期の状況を知る人しかいないかもしれないが。あとは、市場史とかここの商品の歴史のなかで情報を拾うか。例えば、大竹道茂『江戸東京野菜:物語篇』(ISBN:4540091085)では、近郊の村から市場へ野菜を牛車で運ぶ話が出てくる(p.100周辺)。


 しかし、近代以降の交通機関の盛衰の歴史というのも激しいものだ。馬車による輸送そのものが、明治になって初めて出現し、1930年代に消滅する、100年の歴史しか有さないものだったわけで。逆に、大正年間を通じて、自動車は経済性を獲得できず、先駆者の死屍累々の状況。逆に、近距離輸送では牛馬車が主体であった状況。このあたりは、中岡哲郎『自動車が走った:技術と日本人』(ISBN:4022597186)や齊藤俊彦『轍の文化史:人力車から自動車への道』(ISBN:4478240647)と読み比べてみると面白いだろう。それぞれフォーカスが違うだけに、面白い。
 実際、明治末から大正にかけての交通量調査などを見ると、自転車や牛馬車が目立つ。また、当時の工業統計や工場名鑑の「車両」というと馬車や人力車のことを指していたわけで、自転車や自動車の状況を調べようとすると結構苦労する。時代の変化。
 第二次世界大戦のドイツ軍や日本軍も、大概が馬匹牽引主体だったわけだしな。


 本書巻末の鉄道省監督局編『陸上小運搬業に関する調査』(昭和17年)の抜粋や参考文献は、昭和前半の近距離輸送についての情報源として有用。この時点で、熊本では約2750業者、3000人程度が、この業務に従事したという。全国レベルでは、少ない方で、当時の畜力輸送の大きさというのを感じることができる。
 また、この著者には「馬力運送業の崩壊過程」『明大商学論叢』38-3、1954という論文がある。


関連文献:
亀井真実「「共生システム」の成立と衰退 : 長崎市斜面市街地における馬力輸送を手がかりにして」『文化環境研究』4、2010
坂本正夫「荷馬車引きの話--松村各一翁聞書」『四国民俗』36・37、2004