矢作弘『「都市縮小」の時代』

「都市縮小」の時代 (角川oneテーマ21)

「都市縮小」の時代 (角川oneテーマ21)

 日本だけでなく、世界各地で都市の縮小が起きていて、それに応じた「賢く衰退する」「賢く小さくなる」考え方が必要と主張する。後半は、アメリカや東ドイツ、そして日本の縮小都市の状況をレポート。
 ただ、全体的な概観にいまいち感が。20世紀の重厚長大型鉱工業の中心が欧米や旧共産圏からアジアに移動したことが、「衰退都市」の出現の要因になっている。しかし、日本では、将来的にはどうか分からないが、一部の炭鉱都市を除けば、そのような形での都市の衰退は比較的少ないように思う。確かに、今後日本の大部分の都市では人口の縮小トレンドが続くことは疑いない。その点で、それに対応した都市政策の必要性はあるのだが。どうも、全体的に雑駁というか。パリもダウンタウンは繁栄しているが、郊外地域では産業が移動していく、「縮小都市」であるという指摘は興味深い。
 第二章以降は、各地の状況や取り組みの紹介。アメリカ・東ドイツの都市縮小とそれに対する対応の形が興味深い。アメリカでは五大湖周辺の重工業都市では、中産階層の郊外移動と重工業の衰退に伴って、中心市街地が廃墟化するという状況が多いようだ。このあたり、定住の伝統の浅さというか、大陸的というか。近代的なビルがそのまま放置されるという状況が、ヨーロッパや日本では考えがたいように思う。アメリカではストックが十分あるので、それをダウンサイジングしながら、ダウンタウンに人を呼び戻す形になる。東ドイツでは、自由化に伴って国営企業が崩壊し人口が流出、共産主義時代の粗悪な住宅が余る。都市の高齢化と産業の空洞化などの状況がみられる。それぞれに状況がかなり異なる。
 住宅ストックの余剰というのは共通し、その一部を解体するという活動は共通する。日本では、むしろ住宅ストックの余剰というのは、大都市周辺のニュータウンで顕在化していて、地方都市では少ないように思う。また、中心市街地の活性化については、だいぶ違うように見ある。アメリカでは既存ストックの再生への投資が大きいのに対し、東ドイツでは新規建築への投資が大きいように見えるし、「縮小都市」を強調している割には拡大主義的な様相が見てとれるのだが。特に住宅ストックの解体縮小に関しては、土地所有の制度やパターン、その他各種の条件をを仔細に見る必要があるように思うが、そのあたりは突っ込みが浅い。
 また、興味深いのは、放棄された工場や倉庫を勝手に利用する「不法占拠」がどちらの国でも、結構再生に重要な役割を果たしていること。こういう創造的な「不法占拠」が日本ではあまり見られないのは、不動産価値の差の問題か、法制度の性格の差か。


 日本国内では、福井・釜石・飯塚・長崎・泉北の事例が紹介されている。
 福井は悪いほうの事例紹介。拡大志向の都市政策によって、郊外の区画整理が最近まで推進され、それが財政の重荷になっている状況が紹介される。熊本でも、「光の森」という大規模開発が推進されていたわけで。人口や需要の頭打ち状態では、どこかが増えれば、どこかが減るのは道理なわけで。
 釜石は良い事例の紹介。製鉄は衰退しつつも、一定の存在感を維持しているし、地勢的な条件からスプロール化が阻止されているのが大きいようだ。飯塚は、旧産炭都市における大学を核にしたベンチャーによる地域再生の試みの紹介。泉北は高齢化するニュータウンで、リノベーションの試みの現状と課題。減築や改装への政策的誘導は必要なのではないかと思うのだが。建築基準法でも考慮されていないとか、建物の構造的に減築がしにくいという話はおもしろい。
 長崎は「斜面都市」としての問題をクローズアップ。このあたりの取り組みは、他にも応用が効きそうだなと思う。尾道など瀬戸内海の港町とか。どうやったら斜面地が暮らしやすくなるか。安い移動補助手段なんかが重要そうだ。あと、若い人が少ないそうだが、逆に起伏に富んでいる方が、環境としては面白いのではないかと思うのだが。
 地域資源や「DNA」という言い方が出てくるが、熊本にひきつけて考えると、なかなか難しいなと思う。もともと軍事・行政都市である熊本市では、他から金を引っ張ってくる手段が乏しいというか。行政が衰退すると厳しい。あと、縮小を前提とした都市政策を考えると、再開発ビルというのは最悪の方法論だよなとか。というか、「成功した再開発ビル」というのを聞いたことがないのだが。今後の都市政策は「建てない、壊さない、金をかけない」の三ない運動が必要だよなと思う。


 以下、メモ:

 都市が縮小し続けるという実態、楽観的に考えても今後半世紀は人口回復を期待できないという現実を真正面から受け入れ、「ではどのように、都市規模を縮小させるのか」という学問研究は、そして政策は、これまでなかったのである。その意味で縮小都市論は、まったく新しい都市研究である。人口10万人以上の世界の都市の25%が縮小に向かっている時代に、そしてこの割合が今後、加速的に増える時代に、縮小都市研究は都市研究のメジャーに躍り出る。p.32

 結局のところ都市計画という研究分野が先進国の実際の必要によって発展した分野だからな。今までは拡大にしか直面してこなかったわけだが、今後は必要になるのだろう。ただ、欧米日や旧共産圏あたりはともかくとして、アジア・アフリカあたりでは、都市の拡大とスラム化は進行しているわけで、拡大の方向の都市研究も棄ててはいけないのだが。

興味深いことは、2008年7月にイギリスの縮小都市シェフィールドで「人口減少時代の日本の地域社会、コミュニティの変容」という日本に焦点を絞った国際会議が開かれたことである。縮小都市化で先端を走る日本の動向は、グローバルな関心事である。p.34

 こういうのを海外で開かれてしまうのが日本の学問研究の弱さというかね。まあ、日本人が学問を使いこなせていないということでもあるのだが。あと、実際のところ、日本が縮小都市化で先端にいるかというと疑問。中山間地の過疎化なんかは、むしろヨーロッパの方が昔から直面していそうだし、このあたりは日本人側の興味も持ち方も関連しそう。

 1999-2008年に、セントルイスダウンタウンで50億ドルの投資があった。都市問題コラムニストのニール・ピアスは、「その90%は歴史的建築物の修復、多用途への転換に使われた。新しいメガ建築物の開発にとりつかれなかったところがよい」(ワシントンポスト・ライタース・グループ 2008年6月7日)と書いている。p.85

 良く考えると、それだけの投資を吸収できる既存建築物のストックがあるのがすごいな。