岡崎寛徳『鷹と将軍:徳川社会の贈答システム』

鷹と将軍 徳川社会の贈答システム (講談社選書メチエ)

鷹と将軍 徳川社会の贈答システム (講談社選書メチエ)

 鷹狩と徳川将軍の関係を描いた本。読みやすい。津軽家、井伊家、幕府の鷹匠の史料を情報源として利用している。
 第一章は家康から家綱までの時代。プラス彦根藩の鷹狩場についての話。家康の鷹狩への熱中ぶりが興味深い。とくに将軍を秀忠に譲ったあと、大御所になってからは、毎年一月ほどかけて関東を中心に巡っている。戦国ちょっといい話・悪い話まとめでも鷹狩や鷹をめぐる逸話が出てくるが、この時代にはよっぽど流行っていたのだろうな。また、鷹狩は単純に娯楽というだけでなく、土地を巡回して君主の支配権を可視化する、その土地の監査、狩場を通じた支配などの機能があったのだろう。また、彦根藩の井伊家は、近江国内と山城の淀までを鷹場として与えられ、自由に鷹狩を行ってよいとされていた。これには支配権の錯綜した近江などの監視・監督体制や朝廷・西国への押さえ・軍事的な偵察の機能があったようだ。

 また、大池寺で種村は歓迎された。以前、水口藩加藤家の家臣が大池寺の山内へ入り、そこで鳥類の殺生を行ったため、寺側はそれを断ったが、聞き入れてもらえなかったということがあった。これを幕府へ訴え出たが、寺社奉行は山林や下草を荒らすことに対して禁止の高札を立てることを認めたものの、殺生禁制いついては井伊家が対応するものとした。そのため、殺生禁制の高札をまだ建てられないでいたが、ここが彦根藩「御鷹場」であることが確認され、寺にとっては、それが殺生者を入らせない根拠となるとしている。
 内藤十次郎・美濃部八郎右衛門の知行地である甲賀郡深川市場村では、村役人が応対し、種村は「御印鑑札」を渡している。「御印鑑札」は村側からの願いによるもので、村はこれを持つことによって鉄炮猟が可能になる。「御鷹場」内での鳥猟許可権は、彦根藩が有していたことを示している。p.53

 という事例は、彦根藩が広域の監督権と治安維持権限を持っていたことを示している。そこで行われた行為は、関東で将軍が鷹場をつうじて行った行為と似ている。その点では、武井弘一『鉄砲を手放さなかった百姓たち:刀狩りから幕末まで』(ISBN:4022599685)と通じる話だと思った。


 第二章は「献上と拝領」ということで、鷹を通じた儀礼システムを整理している。本書では津軽家の史料を主に利用しているが、毎年の東北諸藩から将軍への鷹献上がどう行われたかを描いている。これは、その年生まれのヒナを集め、将軍に献上するもので、江戸時代後期には献上数や手続きが決まっていたようだ。こうして献上された鷹は、将軍自身や幕府の鷹匠によって飼育・訓練され、実際に獲物を得て、鶴捉・雁捉・鴨捉といったランクが付けられる。そのような鷹が、御三家や一部の譜代大名に、参勤交代で帰国する時の餞別として格式に従って授与される。さらに帰国後、鷹を拝領した大名は、鷹の格に応じた獲物を将軍に献上するという形で、贈答儀礼が確立されていた。
 また、献上した残りの鷹などを他の大名に贈呈することで、大名どうしの交際に利用されたり、町人に売却され、そこから各大名へ流通するなどのつながりもあったそうだ。
 近世の政治・儀礼関係のなかで、鷹は非常に重要な役割を果たしていた。


 第三章は徳川綱吉による鷹狩の中断と吉宗による再興。さらにはその後の幕末までの展開。綱吉は生類憐みの令などの政策を遂行するが、一方で儀礼システムのなかで鷹の献上や鷹狩を性急には廃止できなかったこと。綱吉死後、生類憐みの令は廃止されるが、吉宗にいたるまで鷹狩は再開されなかった。しかし、その間にも諸藩では鷹狩の復活が進み、弘前藩でもそれをにらんだ、鷹匠の増員などが行われ、大名どうしの進呈が行われるようになった。吉宗は、家康時代の復古、「武威の復活」の方向のもとで、鷹狩を復活。自らも鷹狩を行った。自らで鷹狩を行い、獲った獲物(御拳之鳥)を下賜したり、料理して饗応するなどの儀礼が、幕末まで続いた。


 第四章「鷹匠若年寄」は、将軍に献上された鷹を扱った関係者の仕事を、鷹匠同心中山善大夫と若年寄水野忠成の日記から追う。前者の日記から、鷹匠が頻繁に江戸から出張し、鷹に狩りをおこなわせる訓練を行っていたこと。これによって捕獲された鳥は、一部は江戸城へ送られそこで食べられ、一部は鷹の餌として利用された。しかし、将軍の鷹全体でどのくらいの鳥を消費していたのか。『鉄砲を手放さなかった百姓たち』で関東全体を、鷹狩の鳥を確保するために禁猟区にしたという話があり、無駄に広いなと思ったが、資源維持も考えるとそのくらい広い土地が必要だったということなのだろう。
 後半は、鷹担当の若年寄がどのような情報を得ていたかという話。


 徳川将軍家の鷹狩と鷹をめぐる儀礼についてすっきりと整理した本であり。非常に分かりやすい。ただ、あえて言えば、諸大名の鷹狩についての情報も欲しかったなと。特に、綱吉時代には幕府を憚って諸大名も鷹狩を縮減したようだが、鷹匠の技術などの鷹狩の文化はどのように継承されたのか。吉宗が再開したときには24年も経っていて、そのあたりは相当苦労したと思うのだが。あと、個人的には、このような儀礼の背後にある、身体感覚とか論理を理解したいと思うのだが、それこそ難しい。どのような枠組みで、儀礼の背後の感覚や論理を分析することができるのだろうか。


 以下、メモ:

 また、岡山藩池田光政の「池田光政日記」によると、万治3年(1660)11月8日に将軍家綱から拝領した「御鷹之鶴」一羽を、国元で受け取り、神前に供えた。そして、同月22・23日の両日にわたり、家中の者たちへ料理を振る舞っている。p.46

 そして、明和6年(1769)12月15日、直幸は家治から「御拳之鶴」の饗応を受けた。前述の「玄鶴能記」によれば、家治は同年12月6日に小松川筋に向かい、その鶴御成で鶴を自ら捕獲している。この鶴が饗応に出されたのであろう。p.162

 どちらも鶴が捕えられてから、食べるまでの時間が空きすぎじゃなイカ? 前者は14日、後者は9日たっている。いくら冬とは言え、ねえ。実際のところどんな味だったのやら…

 しかし、多様な目的はあったとしても、自らが繰り返し鷹狩を行い、大名に鷹を与え、また鷹狩の獲物の鶴を朝廷に贈るなど、家康が行った諸事は以降の将軍の行為の規範となったことが非常に重要である。個々の将軍により程度の差はあるが、家康こそが原点・規範であり、家康が実施しなければ江戸時代を通じて鷹狩が隆盛ないし存続することはなかったのではないかと感じさせるものがある。p.62

 規範としての家康。まあ、戦国大名の間では鷹狩が流行っていたみたいだけど、家康自身も好きだったのは確かなのだろうな。お義理での付き合いだったらここまで重要性を持ったかどうか。

 特にこれまで、吉宗と鷹の関係では、江戸周辺の鷹場設置の点から説明も行われてきた。この江戸周辺は、幕府領・大名領・旗本領などが入り組んでおり、その支配が不十分な面があった。しかし、将軍の鷹場は、こうした支配の枠組みを越えて一面的に設置された。それによって、錯綜していた領主関係の弱さを補強したというもので、江戸周辺の治安維持を目的として鷹場を設置・整備したとされる。
 また、吉宗は家康政治への復古を目指した。家康が祀られている日光東照宮への社参などを行った吉宗は、「武威の復活」を示現するものとして鷹狩を再開したという指摘もある。「八代将軍吉宗は前代よりの弊政を除き、且昇平久しく人々治に狎れて武を忘るゝを慮り諸政を変革し、また鷹狩を復興す」という。柔弱な士風を刷新することを目的として鷹狩が再開されたと記す「有徳院殿御実紀附録」の記述は、吉宗と鷹狩の関係を見る上で、大きく影響を与えてきたと思われる。鷹狩復活は武威の復活の第一歩であり、家康への強いあこがれを抱いてのものであったと考えられている。p.136-7

 メモ。


 室町時代の鳥の贈答に関しては、盛本昌広『贈答と宴会の中世』(ISBN:4642056548)が詳しい。この時代、鳥は魚介類と同じく「美物」(美味しい物)として盛んに贈答されたようだ。そのランキングは、鵠(白鳥)・菱食・雁というランキングになっていたらしい。近世もそうだったというが、『鷹と将軍』では、鶴・雁・鴨の順番になっていて、異同がある。このあたり史料にでてくる名前と種が必ずしも一致しないから、難しいものがあるのだが。