松岡資明『日本の公文書:開かれたアーカイブズが社会システムを支える』

日本の公文書─開かれたアーカイブズが社会システムを支える

日本の公文書─開かれたアーカイブズが社会システムを支える

 日本のアーカイブスの現状を様々な側面から取材している。完結で読みやすい。説明も素人向けに過不足なくなされている。
 第一章は公文書管理の必要性についての議論。民主主義の基盤としての公文書、それを支える公文書館アーカイブス。実際、

 現代は情報社会と言われ、あふれるばかりの情報に日々さらされている。電車に乗れば、携帯電話の画面に見入る乗客の姿を見ない日はない。前を行く歩行者が遅いなと思えば、ケータイの画面を覗き込んでいる。そうして膨大な量の情報に接している私たちだが、必要な情報が本当に得られているかといえば、答えはノーである。
 たとえば、こんな情報を私たちは耳にしたことがあっただろうか。小泉内閣が掲げた郵政民営化に関連して、政府はアメリカ政府との間で何らかの協議をした可能性があるというのである。民主党逢坂誠二衆院議員によると、アメリカとの会談は18回に及んだという。資料請求に対して政府は当初、文書の存在を否定した。執拗な請求によって会ったことは認めたものの、アメリカ側の出席者名は黒く塗りつぶされていた。
 名前や肩書きが分かれば、どんなことが話し合われたか多少なりとも見当がつく。だから、黒塗りにしたのだろうが、その内容についての記録はいまだに「ない」とされている。p.15-6

 国民の多くにかかわる重要な決定について、水面下で妙な動きがあり、それが開示されないというところに日本の「民主主義」の脆弱さが露わになる。このような状況を改善していく、民主主義の基盤としての公文書管理の重要性。また、このような公文書管理について欧米諸国は言うまでもなく、韓国にすら後れを取っていること。中国や他の途上国にも劣っていかねない状況が指摘される。と同時に、日本の公文書館の貧困さも明らかになる。御立派な先進国だことと慨嘆せざるをえない。
 第二章は公文書管理法の制定過程と法文の内容に関しての解説。福田元首相が後世で最もひょ化される業績は、これかもしれないと思う。人の問題や中間書庫などの問題が積み残されているが、実際どのように運営されるかを含めて、注視すべき問題。
 第三章は「深くて広いアーカイブズの海」ということで、さまざまな史料についての話。林野庁の組織改編で存在が明らかになった国有林史料の話(林業史の資料を一元保存へ 1万6000点を公文書館に)、外邦図とその保存の経緯、市川房枝のメモや満鉄の人事資料、横浜正金銀行山一証券の文書類の話、アジア歴史資料センターなどを扱っている。しかし、国有林史料なんか何十年も眠っていて、下手したら廃棄されていた可能性も高かったわけで、このあたりの史料についての扱いの酷さというのは、何と言ったらいいか分からない。外邦図に関しては、菊地正浩『「地圖」が語る日本の歴史:大東亜戦争終結前後の測量・地図史秘話』ISBN:487015160X記憶が。あと、アジア歴史資料センターの無料公開が「将来的にもボディーブロー的に効いてくるんじゃないかと思います(p.106)」という川島真氏の指摘が興味深い。確かに、自由に利用できることで、プロパガンダ的な主張がしにくくなるのは確かだろうし(両方で)。
 第四章はデジタル化の問題。学術資源の共有や読解の支援システムの話。史料のデジタル化に日本が後れを取っている状況。デジタルデータの保存は周辺機器も含めた保存が必要であり、長期的な視野での準備が必要になるという指摘。実際のところ、災害への脆弱性という点でも、デジタルデータは紙に劣りそうだし、長期保存に適した紙とインクで細かく印刷するのが一番持つのかもしれない。マイクロフィルムにしても劣化は免れないし。
 第五章は、記録資料を保存する動きを紹介している。中越地震時、インド洋大津波宇城市天草市アーカイブス、個人史料や建築アーカイブスの話。なんでか、自称「保守主義者」はこの手の問題に無関心だけど、その土地の歴史や伝統を再び生かすためにこそ、このような記録というものを大事にしなければならないのだと思うのだけれど。
 いろいろ興味深い本。


 以下、メモ:

 公文書管理法案が国会で審議される過程で、国会議員にもすっかりお馴染になった数字がある。42と2500である。前者は日本の国立公文書館の職員数、後者は米国立公文書記録管理院(NARA)の職員数である。いかに日本の公文書館が貧弱であるかが、この数字から一目瞭然である。しかも米国の場合は、大統領直属の組織であり、その長は「ジ・アーキビスト」という尊称で呼ばれる。
 しかし見劣りするのは、米国との比較だけでない。内閣府が公文書の管理等に関する有識者会議に提出した資料によれば、国立公文書館の職員数はイギリス580人、フランス460人、オーストラリア450人、韓国300人という数字が並ぶ。中国やマレーシアを含めて、職員数は3ケタが普通なのである。職員数で見た場合、日本は概ね諸外国の10分の1ということになる。ちなみに国立国会図書館の職員は約900人。20倍以上の開きがあるにはいささか衝撃的である。p.25-6

 酷い…

 国有林史料は、林野庁が1999年度からの5年間で行った組織再編に伴って存在が明らかになった。再編は、それまで全国に14あった営林局本局、分局を7森林管理局に、その下にあった全国229の営林署を98森林管理署に統合、不要になる施設を売却、転用するという内容だった。その際、長期間埃をかぶるままにされてきた古い資料が各地でみつかり、膨大な量にのぼることがわかった。何らかの手を打たないと、反古として廃棄されてしまう恐れがある。筑波大学院生命環境科学研究科の加藤衛拡教授、財団法人徳川黎明会徳川林政史研究所の太田尚宏主任研究員らが2001年から調査を始めた。p.64

http://www.tokugawa.or.jp/institute/005.0000-kenkyuu.htm
 加藤衛拡・太田尚宏「国有林史料の調査と近世・近代史研究への展望」

 デジタル化した知識資源をどう蓄積し、国民に利用を促していくかという点でほとんど政府は無策に近い。国立国会図書館独立行政法人国立公文書館など資料を保存管理する機関が積極的な取り組みをみせているほか、一部の地方自治体に積極的な動きがあるに過ぎない。2008年秋に新しく図書館を開館した栃木県芳賀町公文書館、博物館を併設し、三館を合わせて「情報館」と称している。2014年に博物館の新館を開館する予定の三重県公文書館の機能を備えた博物館を目指している。記録資料は県民の共有財産という意識があるためだが、運用はまだ先であり、ハード先行の感は否めない。
 「韓国にはドキュメンテーション・マインドとでもいうべきものが見られ、情報(資源)に対する日韓の社会的土壌はかなり異なる」と田窪直規近畿大学教授、崔錫斗漢城大学教授は指摘している。1997年に起きたアジア経済危機の際、韓国政府はホワイトカラーの失業対策として情報資源の入力作業を行った。1998年11月から99年2月までの間に、国宝級を含めて600万ページ近い資料がデジタル化されたというが、はたして日本で、このような失業対策事業が行われるであろうか、と田窪氏らは疑問を提起している。p.131

 スポーツや土建には金を出しても、文化や情報には金を出さない日本。アメリカといい、韓国といい、景気対策・失業対策に情報資源の整備を行うという。そのあたりの考え方が素晴らしい。それが、後に残って、さらに大きくなる。情報の力を舐めているというか。

 しかし日本では、デジタル記録を、組織全体を見渡し、将来を見通して管理している組織は少なく、「ジャングル状態にあるといって良い」のが現実だと、自治体などの文書管理に詳しい村岡レコードマネジメント研究所の村岡正司氏は指摘する。共用文書としてサーバーに送った文書のほかに個人のファイルにも同じ文書が存在する。どちらを「正」とし、どちらを「副」とするのか、さえ決められていない。あるいは、守られていない。p.137-8

 あー、そう言えばそうだな。基本、共有サーバないのが「正本」だと思っていたけど。あと、やりとりするときは印刷するから、さらに複雑だったり。

 アーカイブズ設置構想は、阿曽田氏地震の体験が動機になっていた。今をさかのぼる27年前の1983年、県会議員だった阿曽田氏はオランダのライデン市を訪れた。「港湾都市遺跡」とも言える旧三角町の三角港(現三角西港)が4年後の87年、築港100周年を迎えるため、記念事業の下準備のために訪れたのである。主要な目的は、港を設計したお雇い外国人、ローウェンホルスト・ムルダーのことを調べることだった。ムルダー技師がいかなる人物であったか。それを知ろうとしても、日本には手がかりがなかったのである。
 「明治における熊本港のルーツを探る」というタイトルのついた60ページほどの小冊子がある。発行は阿曽田清後援会。阿曽田氏がオランダを訪れて知った事実などをもとに編んだ冊子である。その巻頭に氏は、「1987年(昭和62年)には、築港百周年を迎える訳であり、21世紀にむけての、三角港のあり方、県港湾行政のあり方を考えるときでもあると思います。(中略)ローウェンホルスト・ムルダー技師のルーツを探ることも為政者としてのつとめであるとの認識に立ち、オランダを訪れた次第です」と記している。p.151-2

 日本の各地で土木建設に従事した人物の情報も残っていない体たらく。あと、「明治における熊本港のルーツを探る」はメモ。県立図書館に行けばあるだろう。→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%AB

 日本では無名の市民だけでなく、著名な建築家や研究者の事績を跡付ける資料でさえアーカイブズ(記録資料)として残ることはほとんどない。例えば、ある年齢以上の人なら多くの人がその名を知る著名なエコノミスト大来佐武郎氏が集めた資料が、かつて自らが学長を務めた大学によって廃棄されてしまったことがある。
 大来氏は、経済企画庁に籍を置いた官僚ながら経済安定本部などで戦後の経済復興の推進役として活躍し、国際的にも名の知られたエコノミストだった。ECAFE(Economic Commission for Asia and the Far East:国連アジア極東経済委員会)をはじめとして様々な国際会議に出席してきた唯一ともいえる日本人で、出席した国際会議の資料をこまめに保存していた。敗戦で疲弊した日本がようやく経済をテーマとする国際会議に出席できるようになり、そこからどのようなプロセスを経て国際社会に復帰していったのかを物語る資料だったと思われる。が、残念なことに、肝心の1950年代から60年代にかけての資料がなくなってしまった。
 大来氏はエコノミストとして活躍する一方、財界が設立した国際大学新潟県)の学長を1980年代初めに務めたことがある。その時、著書や集めた図書と一緒に1950年代から60年代にかけての資料を大学に移管した。ところが、大来氏が大学を離れ、その後亡くなると、大学は図書などは別にとして資料を廃棄させてほしいと遺族に了解を求めてきたという。子息の洋一氏(政策研究大学院大学教授)は「母の了解を得て、大学が処分した」と証言している。一方、大学に問い合わせると、「(そのような資料を)当方に寄贈いただいた記録はありません」という返答だった。要するに両者の意見はかみ合わないが、当該の資料を大学に移す際、その手続きに立ち会った人物の証言によれば、厚さ5センチ前後でA4サイズのフォルダーに100個前後はあったという。いずれにせよ、貴重な資料は跡形もなくなった。p.160-1

 これはひどい

筑豊をはじめとする九州北部の石炭産業は閉山が相次いだ。資料散逸の危機的状況が続くなかで、資料収集に全力あげて取り組んだのは現名誉教授の秀村選三氏である。京大で歴史学を学んだ秀村氏には鮮烈な記憶がある。すでに戦争は始まっていたころの話である。大学には、後に京都府知事になった蜷川虎三氏がおり、統計学を教えていた。その蜷川氏がこんな言葉を放ったのである。「大日本帝国は素晴らしい国ですなあ。この大戦争をしっかりした統計も資料もなしにやっているんだから、たいしたもんだ」。発言に気を付けなければたちまち、官憲に踏み込まれた時代。蜷川氏は巧みな表現で日本の欠陥を指摘したのである。秀村氏が資料に深くかかわるようになったきっかけはこの時の体験である。p.171-2

 嫌味なw しかし、資料をしっかり検討したら戦争に踏み切れなかっただろう、常考。まあ、意図的に見なかったというのが正しいみたいだし。→記録資料館 産業経済資料部門