千葉正樹『江戸城が消えていく:「江戸名所図会」の到達点』

 『江戸名所記』、江戸図、『江戸名所図会』に描かれた図像の分析から、これらのメディアがどのような機能を担い、またどのような意図を込めて制作されたのかを検討している。この手の問題には不慣れなので、多少読むのに苦労したが、なかなか興味深い。


 第一部は寛文2(1662)年に刊行された『江戸名所記』の分析。浅井了以によって上方で出版されたもの。描かれた人物の分析からの議論が非常に興味深い。初期の都市案内記は仮名草子であり、啓蒙的な意図から編纂されていると指摘されている。多数の人が武装しながら、それが実際には使用されないよう抑制された状態にあることを、人物の図像、特にケンカの情景から指摘する。また、この時点では既に存在しない天主を描き、それによって大身武士(大名)が秩序化された状況を強調している。このような分析から、社会に広く存在する暴力を前提とし、それが抑制された「平和」状況を、それによって繁栄する江戸を描いていると指摘する。


 第二部は江戸の都市図の変遷から、どのような要請によって制作されたを解明しようとしている。特定の領域の面積や形の歪みを計測し、そこから「絵」から「図」へ、また「図」から「絵」へという変化を明らかにする。寛永期(1624-44)の都市図は絵画的な表現がなされ、また、その関心は江戸城に向いていた。寛文10年には遠近道印によって実測による『新版江戸大絵図』などの分間図が出版され、精度では頂点に至る。この後、分間図系統の絵図でも、精度を低下させ「絵」的な地図が主流になる。小石川地区をグリッドで画し、その歪みを計測することから、情報量が必要な場所は大きく、少なくてもかまわない場所は小さくという方向で発展したこと。これが、木版印刷の技術的な制約によって起きたこと、武家の社交や職務上の必要から武家屋敷の情報量が重視されたことが指摘される。メディアとしての需要、必要な情報を盛り込む必要性から、江戸絵図はあえて地図としての正確性を放棄し、情報量を選択したとまとめられる。

 このような情報の構造は木版印刷という技術に由来している。近世日本の木版印刷技術は世界史上、最高レベルに達していた。それでも表現可能な一本の線の幅はせいぜい0.2ミリであろう。ある限られた紙面上に表現できる情報量は、この0.2ミリという幅に決定的に制約されていた。一方で、都市メディアとしての江戸絵図は、一覧できる面積や、広げる部屋の大きさ、商品としての生産性、持ち歩きの利便性などに規定されており、最大でも二畳大という限界があったとみられる。この限られた面積と木版印刷という技術のなかでは、情報の量を第一に考えるのであれば、情報を増やしたい地区は拡大し、そうでない場所は狭く収めるというやり方を採用せざるをえない。江戸絵図の正確性と情報量とは反比例したのである。p.127-8



 第三部は天保5(1834)年に刊行された『江戸名所図会』の分析。図像や構成、『都名所図会』などの言説の分析から、「企てられ、慎重に演出された(p.211)」意図を読み解いている。

 すなわち『江戸名所図会』は江戸の空間認識における二重の逆転を企てていたのではなかっただろうか。第一の逆転は上方中心認識に対するもので、東海道の下りの終点としての江戸を、上りの出発点に読み替え、江戸からの視点で国土を認識しようというもの、第二の逆転は江戸の中心を江戸城から町方中心部に移し替えるものであった。p.204-5

と指摘する。また、描かれなかったものから、『江戸名所図会』が、武士を敬して遠ざけ、繁栄する江戸を描き、事件などを選択的に排除して、「調和を強調した一種のユートピアとしての江戸町方を描きだした(p.224)」、江戸町人の自画像であると指摘する。


 最後にエピローグとして、これらの議論を踏まえ、将軍権力の構造変化(視線を振りまくことから隔離された空間へ)や公共性と差異化ゲームが交錯するメディアとしての江戸の都市メディアの性格を指摘する。


 以下、メモ:

江戸絵図はどのようなメディアだったか
 あえていうならば、日本の近世都市社会は本来、絵図を必要としていなかった。
 吉田伸之氏の指摘するように、城下町はもともと一本の木のように枝分かれし、枝それぞれがある程度自立しているという社会構造を与えられていた。町方・寺社方・武家方という身分別の社会が、それぞれ固有の結びつきをもって、一つの都市空間に併存していたのである。19世紀になってようやく江戸の境界を定めようという議論が起きているように、総城下町江戸もひとまとまりの社会となっていたのではなかった。
 このような社会であったので、江戸内部の空間関係は本来、それぞれの社会をたどる支配の経路として、樹枝状に観念されていたと考えられる。町人の場合は、町奉行所から町年寄へ、さらに中期以降は当番名主をへて名主へ、そこから個別の町々を経由して、それぞれのイエに到達する支配が行われた。寺社は寺社奉行から、本寺・本社と末寺・末社の関係をへて、それぞれに寺院・神社に支配が及んでおり、この関係はさらに個別の寺院と檀家の結びつきをたどって、イエに到達する。武士はもちろん、幕府内部や大名家ごとにさまざまに編成されていて、またその関係は城内や役宅、大名屋敷における空間関係に反映されていた。こういった樹枝状に伸びる空間関係があり、それぞれの末端であるイエは社会空間として完結することが期待されていた。城下町もほぼ同様の空間関係をもっていた。
 したがって江戸をはじめ、城下町では、上位に位置している既知の空間から、下位の既知の空間へと反復される認識によって、それぞれの空間が把握されるという原則がある。町年寄は名主を知り、名主はそれぞれの町を知り、また町という共同体が個別のイエを知るという関係が前提になっている。その関係で都市社会が運営されるのだから、そこに末端レベルの名所と位置を結ぶ情報がなくても困らないということになる。したがって空間情報の一体的な蓄積=絵図の必要はなかったといえよう。幕府の行う絵図製作は、特に軍事的な目的を重視して、都市の計画と運営のために基礎情報を入手するために行われたのであって、都市住民への公開は前提にされていなかった。ただし、これはあくまでも近世社会の原理的・原初的なありかたである。
 よく知られているように、江戸ではごく早い時期から絵図の出版が行われた。それは近世都市としての江戸が誕生するのと同時に、樹枝状の空間構造では把握しきれない、枝と枝を横断するような社会空間関係が発生していて、それを確認しようという要求に応じたことにほかならない。それぞれの町人や武士は、別の町、別のところに住む町人や武士と知り合い、関係をもち、その住むところを知る必要があったのである。いわば江戸絵図は、近世社会の原理的なありかたの外側に成立した、日々生じていく新しい空間関係を記述することによって、商品と成り得たのである。江戸絵図における製作者と購買者の共有する都市を眺める論理とは、都市社会のなかで生成するさまざまな社会関係から、そのどれを選択し、強調するかという局面を骨格としているのであり、その変化の過程として、江戸絵図の変化を読み取ることが求められる。p.135-7

 このように籬島の創始した名所図絵というメディアは、「地域を編集する」「都市を編纂する」という方法を確立した点で、まったく新しい特性をもっていた。『江戸名所記』やその先駆けとなった『京童』のように、地誌は最初、ひとりの人物のたどる経路を模して、編集された。その後、実用性を要求されるようになってから、テーマ別や地区別の編集が行われたが、『都名所図会』以前に、中心と周縁という切り分けを明確に行った事例はなかったのである。p.198-9

 近現代の人類社会は、科学の発展による技術発展がすべてをリードしてきたといってもいい。技術をあえて局限し、そのなかで何が可能なのかを、極限まで究め、社会を変えていく。江戸都市メディアの二百数十年にわたる歩みは、人類史上の得難い社会実験であった。欧米化を直接意味しない〈失われた近代〉の可能性、あるいは近代化の本質を考える手掛かりは、江戸の都市メディアに潜んでいるといえよう。p.249