東島誠『選書日本中世史2:自由にしてケシカラン人々の世紀』

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

 題名から、バサラ大名が行ったり来たりする話かと思っていたら、むしろ思想史、社会思想な感じの本だった。中世から近世の思想や社会構造を見ながら、「自由」な社会を形作るための可能性を探るとでもまとめたらいいのだろうか。


 本書は、エピソード単位では非常に興味深い話が続くし、後半の「公共性」や社会の「可能態」の議論なども問題意識として理解できる。しかし、結局のところ、この本の著者の身のこなし、姿勢が気にいらない。「私は極力自身の立ち位置をマージナルに取ろうとしてきた(p.215)」という言葉に端的に表れているけど、東大の文学部を卒業して、キャリアを重ねていまや大学教授という人が、マージナルを気取っても、それは結局ポーズに過ぎないのではないだろうか。『選書日本中世史』の第一巻を書いた本郷和人氏も、東大の史料編纂所という国家が自身の正当性を確立するための装置の中核にいることの「権力性」に無頓着だったように、制度の中心近くで保護や便益を受けながら、自分の立ち位置に無頓着な人が続いているのではないか。


 そもそも、人間に「自由」なんてあるのだろうか。最も近い種類の生き物であるチンパンジーがすでに群れているように、人間は「群れ」あるいは「共同体」というものから逃れられないのではないだろうか。
 「公共圏」あるいは「市民」「公衆」「公論」の場、「万民に開かれた言説空間」として、中世の禅林、近世の文芸的公共圏、四条河原の勧進田楽、フランスの劇場、ギリシア市民社会、フランス近世の市民社会などが本書では紹介される。しかし、それらの場は、「特権としての自由」の場でないか。既に選別されたもののみが享受できる「自由」なのではないだろうか。そう考えると、「隠遁」という行為そのものが、それだけの余裕のある人物の特権なのではないだろうか。
 第一部第六章では、世襲とコネを「日本的な」と述べているが、ヨーロッパにしても、アメリカにしても、日本と比べると剥きだしのコネ社会であり、門閥社会ではないか。中世の禅僧が元に留学し、その自由さに感激して帰国、それに比べて日本はとため息をつく。それは、戦後アメリカの大学に留学し、アメリカの大学の自由や制度に感激して帰ってきた人々の言動と奇妙に似ている。アメリカ社会全体を見渡すことを怠り、アメリカの大学が特権的な空間であり、基本的にはすでにコネを持っている人々の場であることを見逃してきた議論と軌を一にする。結局のところ、客として表面しか見せられなかったことを知らないまま、そこにユートピアを投影しているという点では、一緒であり、批判精神という点では重要であるものの、結局は生命力を持たない主張なのではないか。


 80年代から90年代前半にかけて、自由競争だ、個性だ、自由だ、秩序からのエスケープと煽られて、梯子を外された世代からすれば、本書は未だにバブル世代的な意識を感じる。

だが、一揆は基本的に人々を糾合、集めることはできても、既存のシステムを解体することはできない。そこのところが常に看過されているので、私などには非常に物足りなく感じられるのである。1980年代にピークを持つ社会史研究のもっとも良質な部分は、少なくとも既存のシステムを解体する〈契機〉を論じていた。しかるにいま、議論ははっきりと〈社会統合〉を積極的に肯定する方向へと向かっているように思われるのである。1980年代に、文化を「身分からの自由とそれによる人々の新しい結合をより純化した形で展開したもの」として論じたはずの義江彰夫が、2004年に至って「失われた「社会的一体感」を回復する動き」であるとか「諸身分横断型の全社会統合を目指す動き」へと論調をシフトしているのも、こうした歴史学の流れに棹差すものと言うべきであろう。文化に「身分からの自由」を見るか「社会的一体感」を見るか、私なら断然前者にこだわりたい。p.75

と述べているが、まさにここにこそ社会に対する感度の鈍さを指摘せざるをえない。既にシステムが解体し、剥きだしの市場競争にさらされ、さらには新自由主義的政策に対する異議申し立ても機能しない、そのような社会状況の中では人間を糾合すること、それによって社会的公正を回復することを主題にすることこそが、むしろ現代的課題なのではないか。東島氏の言葉は、温室の中にいる人の言葉、あるいは「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と同一のものにしか感じない。「身分からの自由」の先に、「新しい結合」がなかったという現状、無縁社会の出現を見、人間同士の結合に目を向けざるを得なくなった義江氏のほうが、よりアクチュアルな態度ではないだろうか。
 ラストの「退きこもり」の経験が人間関係の再編に必要だと述べているが、「退きこもり」→再起というのは余裕のある人間にしかできないことだろう。現役「引きこもり」からすれば、「引きこもり」というのは社会で生きるだけの戦力を失ってやむなく選択する篭城戦、しかも後詰の期待できないじり貧の戦いに過ぎない。


 以下、メモ:

12 ヨーロッパでは嬰児が生まれてから殺されるということは滅多に、というよりほとんど全くない。日本の女性は、育てていくことができないと思うと、みんな喉の上に足をのせて殺してしまう。
(中略)
 まだ近代と現代の連続性が意識されていた20世紀までであれば、これらはなお「信じられない」という光景であったはずである。それはまさに〈アリエナイ〉中世の一齣である。1970年代のコインロッカー・ベイビーの衝撃は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)が、いまだ作品として成り立つ余地のあった時代であることを示していよう。しかし2010年の現在、親が自分の子供を虐待したり、車に放りして死なせたり、という話は、残念ながら、われわれの感覚を麻痺させるほどによく聞かれるニュースになりつつあるのである。それはもはや、〈アリエナイ〉異質的社会の出来事ではなくなってきている。p.29

 他人に全知たれとは言えないから、ここではデータの提示のみ。殺人の統計からすれば、嬰児殺は激減しているということを指摘しよう。『日本の殺人』(ISBN:9784480064882)を読むべし。むしろ嬰児を殺すという慣習が薄れてきたからこそ、ニュースバリューを持つようになった。あるいはメディアのマッチポンプに社会全体が振り回されている。