刑部芳則『洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新』

洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新 (講談社選書メチエ)

洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新 (講談社選書メチエ)

 明治20年あたりまでの、洋式の制服が定着するまでの紆余曲折を描いている。文明開化と簡単に言うが、服装という身体に染みついた習慣を変えていくのには、相当の手間と抵抗があったことが分かる。結局、制服という外向きのフォーマルな服装を確立するだけで20年かかって、女性の洋装化はもっと後、さらに私生活まで洋服が定着するのは20世紀の後半に入ってからという。そう言えば、サザエさんの家族の服装が、波平は背広に帽子から家では和服、マスオさんが背広からジャージなどの洋装という世代間の変化を紹介しているけど、70代以上の人たちは、外出する時に背広来て帽子をかぶるというパターンの人が結構目立つな。祖父もそうだった。私などは帽子をかぶる習慣がないから、記憶に残ったな。そのあたりの服装の習俗も存外大きいし、調べるのは大変なのだろうな。


 大まかな歴史的流れとしては、武家と公家の制服をめぐる対立、欧米諸国との外交儀礼の都合から、洋服が儀礼用の制服として採用される。その際、古代の「筒袖」「細袴」を「復古」するという論理で洋服の導入が図られた。けど、これってずいぶん無理な理屈だな…
 大礼服などの礼装を洋服にしてからも紆余曲折がある。岩倉使節団で調製した礼服と本国で決定した礼服の二種類が並存し、それのバリエーションも含めて、統一された制服にならなかったこと。礼服が高価で、調製できる店も限られていたこと。また、今後の改訂が予期されたことから、必ずしもスムーズに礼服の導入が進まなかったこと。また、旧来の身分制度や伝統の維持を願うものや、政府の感触から排除された不平士族による抵抗。しかし、明治10年代には、エリートの表象としての洋服は定着していく。
 一方で、女性の礼服の洋装化はなかなか進まず、明治20年代の時点では、今後の課題として積み残される。鹿鳴館で洋装が進んだかのように言われるが、着心地や身分、性差別の問題などからなかなか普及しない。儀礼での和装の容認によって、逆に後退を余儀なくされる。


 本当に、服装と言う体に染みついた習慣を変更するのには手間がかかる。しかし、明治政府が実施したような強権的な習慣の変更というものが本当に必要なものだったのかというのは、疑問が残る。まあ、当時は、「欧米人と慣習も同化すること」が「文明化」のイデオロギーとして、国内のエリート層だけではなく、海外からも要求されたのだろう。
 あと、面白かったのが、最後近くに紹介された東京美術学校の制服の話。同校では、有職故実を基に古代の官服を模した、袍が制服として採用されるが、これがものすごく浮いていたという。写真を見ても、李朝時代の朝鮮半島みたいに見えるし。


 以下、メモ:

 こうした状況を受けて大納言中御門経之は、新政府の発足から三年が経過して、いまだに政府の服制が確定しないことを批判した。「兵卒ノ輩、万国ノ服ヲ交用更ニ目的トスルナシ、兵卒国服ナキハ実ニ外国ニ対シ大ニ恥所ト実候」(『中御門家文書』上)などと言及する中御門にとって、服制制定は伊達や松平とは異なり緊要な課題であった。裏を返せば、制服は国家の体面にも関わる重要な問題であったため、軽率に制定するわけにはいかなかったともいえる。明治三年八月、大久保利通岩倉具視に服制制定を見合わせるように進言している。p.32

 制服は国家の体面にかかわるか。確かに、軍隊や警察がばらばらの服装をしていたら弱そうだし、統制上も問題ありなのだろうけど。

 次の項で詳述する服制改革が断行され、政府官員の洋服着用が自明となってからの話であるが、明治九年に渡米した西郷従道はニューヨークのホテルで飲酒したところ、酔いがまわるにつれ洋服を窮屈に感じ上着を脱ぎ、襟のカラーが喉を締めつけるとシャツも脱ぎ、最終的には全裸になっている。衣冠の着用で泣かされた西郷隆盛に対して、弟の従道は洋服で苦労させられた。また、洋服を着はじめた官員の多くは、慣れていない釦の開閉に困った。洋式大礼服のズボン釦が開いたまま新年朝拝に出席したり、便所に向かうも釦を外せず捻じ切る者や、なかには間に合わず失禁する者も存在したという(『久米博士九十年回顧録』下)。p.42

 酔っぱらって脱ぎだすのは女の子じゃないと絵にならないなw
 しかし、異なる衣服に適応するのは並大抵のことじゃないと。普通にボタンを使っていると忘れがちなのだが、結構難しい作業なのだよな。子供の頃は苦労したわけだし。ずいぶん時間をかけて学習した動きなのだ。

 そこでは、従来の衣冠などを軟弱な服装だと論じ、神武天皇神功皇后の頃のような姿に戻すべきだという。それがどのような服装であったかなどは明確ではないが、衣服制度取調掛の考案や服制議論から、多くの者が古代官服に対して「筒袖」「細袴」という想像を抱いていたことは事実である。「筒袖」「細袴」の形状は、洋服と非常に類似している。しかし、洋服を採用するとなれば、公家や諸侯だけでなく、全国の士族からも反対が出ることが予想される。したがって、洋服を採用するとは明記せず、論理的に「王政復古」の制服である古代官服を想定させながら、実質的には洋式服制になることを示していたのである(刑部芳則「明治太政官制形成期の服制議論」)。これにともなって天皇の軍服を制定するために各国皇帝の軍服調査が開始されている。「服制変革内勅」は、天皇の意向を重く受け止める公家や諸侯に対して、服装観を変更させるのに効果的であったに違いない。また維新官僚にとっては、服制改革の正当性を示す意味から、必要不可欠なものであった。
(中略)
 「王政復古の制服」は、「筒袖」「細袴」という「復古」に論理によって、同じ構造を持つ洋服を「創業」することとなったのである。p.44-5

 明治七年・八年に小川為治が書いた『開化問答』は、「開化」を説く開次郎と、「陋習」に固執する旧平の議論から、「文明開化」と呼ばれる時勢の変化を明らかにした作品である。(中略)
 右の問いに対して開次郎は、洋服や散髪が西洋の模倣でないことを説明する。ともに古代日本の慣習にもとづくものであり、それが中世以降に「袖も長くし髪も結ふことになつた」とし、「半髪野郎頭といふものは、乱世の陋しき風」(『明治文化全集』ニ四・文明開化篇)であるという。自然と生える髪で頭部を保護する散髪は、月代を剃る手間を省き、結髪に要する油の費用をなくすことも可能であると論じる。また帽子を被る必要性も忘れていない。袖や袴が細い洋服は、農民や職人の作業にも適しており、それは古代の衣服にならったものだと主張する。旧平の問いは、島津久光に代表される士族らの不平を反映し、開次郎の答えは、「文明開化の服制」を推進する政府官僚の意見を表現していた。もっとも、両者の問答は、後者の正当性を示すためのものであり、前者の誤りを指摘する以上の意味を持たなかった。p.109

 なんというか、明治政府の議論には偽史が満ち溢れているよな。「伝統」の「創造」を通り越して、捏造が横行している印象。こういうのが現在にも尾を引いていそうなのがなんとも。

 国内において女子の洋服は、意外なところで着用されていた。それは長崎丸山寄合町松月楼に代表される遊郭の遊女であった。当時の洋服は、クリノリン・ドレスと称し、スカートが全体的に膨らんでいるのが特徴である。松月楼の遊女は、長崎の有名な写真師上野彦馬の写真館で洋服姿を撮影している。東京の各所遊女も洋服姿を撮影していることから、客寄せを目的にした宣伝用と判断される。p.73

 初期の女性の洋装の導入。今で言うとコスプレみたいな感じだったのだろうか。