G.H.Q.の刀狩り以前の日本は民間人が拳銃をもてる社会

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 たいがいどこの国でも、前近代には自力救済が前提で、集落や都市などの団体は自前で武装しているか、武装した誰かの庇護をうけていた。それは日本でも例外ではなかった。
 しかし、国民国家の成長とともに武装の制限と使用の抑制が進んだ。ヨーロッパなんかでも、基本的には一般市民は武器を持っていないのではないかな。実態はよく分からないが。
 ところが、啓蒙主義的な変化を経ていないアメリカは、独立戦争の経緯もあって「自力救済」を金科玉条のように固守する国になった。むしろ、アメリカの「後進性」の象徴なんだよね。現代社会においては、個人や民兵レベルの武装は、むしろ無秩序の要因にしかならないのだけれど。まあ、スイスやフィンランドのような人口規模が小さく、国民皆兵を実践せざるをえない国では、一般市民が普通に火器を保有していて、それが犯罪に使用されることは結構あるみたいだけど。


 日本の武器使用の抑制は興味深いものがある。例えば、近世の一揆では、鉄砲は鳴り物としてしか利用されなかった。このあたりの習俗はどのように形成され、維持されたのか。逆に、自由民権運動の過程では、ピストルなどの火器の使用は結構あったようだし。
 あと、火の見櫓なんかは、このような村落の自力救済のシステムと密接に結びついていたものだったことを忘れてはならない。
 刀狩りについては、朝日百科の『日本の歴史を読み直す15:城と合戦』の末尾、藤木久志「戦いの後に:三つの刀狩り」で解説されているな。今は入手困難だし、他に収録されているかは分からないけど。戦国末期の刀狩りが、大仏の建立とあわせてやっと実施し得たこと、それもかなり不徹底だった状況。近世から明治にかけて、事実上刀の所持は野放しで、身分の標識と言う観点からのみ規制されたこと。太平洋戦争の敗戦時の刀狩りで、民衆の武装解除は行われたこと、などがわかる。

と言うか、現刑法の正当防衛の規定は銃所持が前提になっていた戦前の規定が改定されず残って居る物だとか.

だから、現行法の正当防衛はほぼ成立不可能なほど敷居が高いのです。

 ああ、だから無暗に条件が厳しいのか。納得した。と同時に、司法関係者のアフォさ加減も痛感。

捜査が進んで事件の背景が明らかになれば、アメリカの政治社会の病巣というか歪というか、が見えてくるのではないかな。銃を持つのが「主体性」とか「自立」と結びついているようには見えない、むしろ「自然状態」的なものが広がっているように感じさせる。.daichi_at_KCL

 歪さは分かり切っているのに、直せないのがアメリカの業の深さというか。「自由」と「武装」が同一視されるようになったというのが問題なのだろうな。外から見ると、アメリカの銃は、犯罪と人権の抑圧にしか機能していないだけどね。


地域社会の武力、秩序力、自立性  〔第4週〕

江戸時代が終って半世紀余もたった時点の例だが、関東大震災にあたって、多くの朝鮮人を殺傷したのが、右のような村の武力であったことにも、目をそむけるわけにはいかない。一面で、戦前・戦中の男たちの多くは、夜、痴漢が出没するなどという噂を聞けば、枕元にステッキをおいて寝、悲鳴を聞いたら飛び出ようとしていた。現代の団地住宅での痴漢問題で、住民の自発的な組織が生まれる場合もあるが、警察官による各家への取締りだけを求める声が出ることもある。後者の思考法は、また通勤電車内での暴力等にも見てみぬふりをするひとびとに通じる。そして、太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像が、そうした思考法と通じあう役割をももつ

 実際のことろ、水戸黄門の悪代官とか越後屋なんか、実際の江戸時代にはありえなかったんだよね。あまり非道をやると、一揆喰らって、代官は切腹とかいう事態になるし、悪徳商人は打ちこわしを喰らう。「正当防衛」や自力救済が、司法的に相当抑圧される状態では、警察が守るべきという主張は当を得ているし、官憲の側もそのような行動を望んでいるのだろうな。あと、電車なんかのバラバラの個人が集まっただけの空間では、暴力への耐性が低いというのも考慮すべきだろう。
 逆に、「村の武力」が虐殺や人権の抑圧につながる側面も、考えるべき問題だと思う。ただ、確かに自力救済の徹底否定が、日本社会の活力をそいだ側面はあるのかも。