飯沼二郎『日本農業の再発見:歴史と風土から』

日本農業の再発見―歴史と風土から (NHKブックス 226)

日本農業の再発見―歴史と風土から (NHKブックス 226)

 久方ぶりに積み本崩し。ブックオフで100円で買った本。
 世界各地の農業と気候の関係から、日本の農業の特性を明らかにし、農政の方向性について提言する。1975年刊行の本なんだけど、あんまり農業の置かれた状況や言説が変わっていないのがなんとも。逆に時代がかったところも多々あり。第四章日本資本主義と地主制や第五章国際分業論の政治性あたりのコテコテのマルクス主義的解釈や、第六章の農村の経済事情の違いぶりとか、そのあたりは時代を感じる。
 日本の農業が、基本的に家族経営の複合農業であり、それに適した農業政策を行うべきだという主張には基本的に同感。半乾燥地地域の大規模灌漑農業と比べた時に、雑草や害虫などの強さの点で不利な日本が太刀打ちできるとは思わない。ただ、1970年代に妥当したことが、日本の賃金水準が高くなった現在に適用できるかどうかは疑問。あと、実は第二種兼業農家ってのは、実は「家族経営の複合農業」の高度に発展した形態だったりするのではないかななどと考えたり。
 第二章の日本の近代農学の発展の話も興味深い。初期の農学校では、士族出身者が、ヨーロッパ人による講義を聞いただけの代物で、実地への応用の利かない机上の空論だったそうだ。このような出発点は、確かに日本の農業に負の影響を与えたのだろうなと思う。あとは、第六章の「家族経営の複合農業」モデルでの近代化の事例を紹介しているが、家族経営内での、商品にならない産物(家畜の糞尿とかくず野菜)のやり取りや労働力の交換の話は興味深い。40年近くたった現在、本書で取り上げられた農家はどうなっているのだろうか。


 以下、メモ:

 南ヨーロッパは冬雨だが、北ヨーロッパは夏雨だから、南と北とでは年雨量はさほどちがわなくても(たとえばローマは800ミリ、パリやロンドンは600ミリぐらい)、南ヨーロッパでは夏作物ができないのに、北ヨーロッパでは夏作ができると同時に、雑草もよく生える。そこで北ヨーロッパでは、夏作(オオムギエンバクなど)と冬作(コムギ、ライムギなど)との輪作が行われる。
 しかし、雑草が生えるといっても、後に見るような東南アジアや東アジアほどは生えないから、除草は一切おこなわない。つまり、播種をしたら、あとは収穫まで、なにもしない。しかし、このようなことを二年もつづけると、耕地は雑草でいっぱいになり、それ以上、ムギ作をつづけることが困難になる。そこで、三年目には耕地を休閑して、夏に、湿潤地用の犂(図21)で深耕し、土を反転して雑草を埋め殺す(これを休閑除草と名づけよう)。そうすると、またあと二年間は除草することなしにムギ作をおこなうことができる。このようなやりかたを三圃制という。p.49

 ずいぶん楽そうだな。ヨーロッパとかロシアあたりの都市住民が、農村地域に別荘を持つってのは、このあたりの除草が楽というのは大きいのではないかと。日本で別荘をもったら、草刈りだけで死ねる。

 はるかむかし、西南アジアの丘陵地帯からはじまった休閑農業は、地中海、北ヨーロッパとつたわって、最後に、アメリカにおいて最高の発達をとげた。次にお話しする中耕農業とくらべて、休閑農業は、保水農業についても除草農業についても、より乾燥的な地帯で発達したため、手間をよけいかけるよりも、栽培面積をふやすほうが、より効果的に生産力を発達させることができた。したがって、それは、機械化の方向にむかって発達していくことになったのである。p.62

 西洋における近代農学の開祖ともいうべきアルプレヒト・テーアは、その主著『合理的農業の原理』全四巻(1809-21)において、合理的農業とは土地と物(資材)と人(労働力)とをあますところなく利用しつくすことだといった。このことは、農業にかぎらず、たとえば工場や会社の経営などについて考えてみれば、きわめて、あたりまえのことにすぎない。もしも従業員の手を一日なにもしないで遊ばせてしまったり、手もちの資材をじゅうぶんに利用できなかったりしたら、そのような経営者は落第であり、そのような会社や工場は、ほどなく破産するにちがいない。
 しかし、このような“合理的農業の原理”は世界共通であるにしても、その具体的なあらわれは、各国各様である。一つの国で合理的な農業の具体的なありかたが、そっくりそのまま、他の国で合理的であるはずはない。とくに、休閑農業における合理的な農業と、中耕農業における合理的な農業とは、根本的にことなるはずである。すでにくりかえし述べてきたように、休閑農業では、経営規模は大きければ大きいほど合理的であるのにたいして、中耕農業では内ばなるをもってよしとするのである。p.74-5

 それぞれの地域特性を重視すべしという指摘。

日本農業の特徴
 日本の農業は、江戸時代の農書をよむならば、家族労働による複合経営(いろいろの作物や家畜を同時に平行して、つくり飼い、それらを相互に有機的に組合わせるやり方)として発達してきたことがわかる。それが、夏に高温多湿なモンスーン地帯にぞくする日本で、土地と物と人とをあますところなく利用するための最も合理的な経営のあり方であったからである。
 たとえば、貞享元年(1684)に、福島県会津地方の農民、佐瀬与次右衛門によってつくられた『会津農書』をみてみよう。イナ作についての詳細な記述はもちろんであるが、雑穀やヤサイの栽培時節にもとづく組み合わせと、それを忌地、好地との関係についても、周到な記述がなされている。そのほか、あらゆる物資が資料としてまた飼料として利用しつくされ、そしてそのような作業には家族全員の労働が期待されている。
 これにたいして、おなじ福島県の現在の農業指導員がつくった『福島県昭和47年度農事暦』をみてみると、その記述は、イナ作以外については、はるかに簡単であり、粗雑である。そこには、コメ以外のものはどうでもいいといったなげやりの態度が、あきらかに読みとれる。ヤサイや雑穀をいかに組みあわせて、地力や資材や労働力の合理的な利用をはかるかというような考え方は、今日の福島県の農業指導員諸君の頭脳から消えうせてしまったようである。それは、合理化の真の基盤である複合経営が、彼らの頭脳から消えうせてしまったからである。p.77-80

 基本的にはそうなのだろうな。ただ、機械化に伴って畝の間に植えるのが難しくなるとか、労働コストの激増とか、家族制度の崩壊なんかを考えると、現在にはどの程度生きるのか。

 熊本県北部の山鹿町に、金物農具商で大津末次郎という人がいた。かれは小学校しか出ていなかったが(当時の小学校は四年)、日夜、農民に接しているうちに、その切実な要望を知り、その要望にこたえるべく、新しい深耕用の犂の発明をおもい立った、店のうらに小さな実験室をつくり、文字どおり寝食を忘れて研究に没頭した。そして、ついに発明したものが短床犂であった。かれは、これを?犂(まるこずき)と名づけて、明治33年(1900)三月に特許を出願した。p.122

 このあたりは県立図書館で文献が見つかりそうだ。しかし、農具って博物館に大量に入っていたりするが、実際に使った経験がないと、それがどのような長所を持っていたかってのは本当には分からないだろうな。