『鶴見良行著作集9:ナマコ』

鶴見良行著作集〈9〉ナマコ

鶴見良行著作集〈9〉ナマコ

 『ナマコを歩く』が図書館に入っていたので、その前段階として鶴見良行の『ナマコの眼』に取り掛かる。『鶴見良行著作集』って、10年来の宿題と化しているのだが、なかなか進まない。本書も4日がかりと結構時間がかかった。記録に残されない物事を、断片的な情報から、改めて再構成するわけだが、その膨大な事実の前にだんだんと疲労してくる。文章そのものは平易だと思うけど、情報量の問題か、あっち飛びこっち飛びする世界観か、なかなか苦労した。


 全体としては、中国に流入する干しナマコの交易を、新しい時代・場所から順にたどって、起源までたどる構成。
 最初は太平洋の島々が舞台。19世紀のフィジーパラオのナマコ交易。アメリカ東岸、セイレムから来た交易船がこの貿易に従事し、それにナマコを干す技術を教えた「マニラメン」、あるいは日本の南洋への進出。東南アジアと太平洋の島々の近さ。帝国主義と生態系の破壊、人の移動。
 第二章はオーストラリア。17世紀あたりから20世紀の初頭まで、スラウェシ島からオーストラリアの北岸、カーペンタリア湾へ、「マカサーン」と呼ばれる人々のナマコ採りの船団が往復していた。一方、白人は、東海岸の南部から北上してくる。こちらは歴史に残されているが、北の海岸の歴史についてはあまり残されていないという話。また、植民地の開発にともなう奴隷制の問題など。
 第三章は東南アジアの島嶼部。スラウェシからインドネシア東部、ニューギニア島、オーストラリアに及ぶ、島嶼交易圏。近世のクローヴやナツメグなどの香辛料から、ナマコなどの海産物交易への輸出産業の変化。スルー諸島のナマコ。ナマコの流通を支配する華人たち。こちらの南方地域では干しナマコを戻して食べるという習慣が全くないというのが興味深い。
 第四章は東北アジア。古代から現代まで。古代からの日本国内のナマコの利用。木簡や格式などに現れる「イリコ」。江戸時代の俵物貿易とアイヌ人の隷属化。近代の開国による変化と日本漁民の日本海への進出、そしてナマコ文化の淵源へ。道教文化、神仙思想とナマコ食の関係。もともとの食品化については朝鮮半島の北東岸あたりで行われたと推測する。このあたりになると全然ついていけていないがw


 古代から現代に至るナマコの流れを通じて、国家中央やヨーロッパや日本から見た植民地という視点では捉えきれない、人や物、文化の流れが析出される。国際商品でありながら、派手に脚光を浴びるほどではないという、ナマコの独特のポジションに目を付けて、そこから海域アジア世界とでも言うものを浮かび上がらせた、鶴見良行の目の付けどころと粘りが凄い。実際、紹介されている参考文献もなかなかすごい量だし。


 以下、メモ:

 歴史の対象領域を、一本の線で区切って考えるのは、ひどく厄介である。この厄介さがあるから、史家たちはしばしば帝王やサルタンの立場から歴史を書いてきた。この手法は、歴史記述の困難を回避する安易なものといえなくはない。
 辺境の田舎ばかり私は歩いているからとくに感じるのかもしれないが、国家の主権と領土が確立した今日でも、住民はいとも自由に交流している。
 友人の寺田勇文氏から手紙をもらった。かれは、フィリピン学を教える新進気鋭の学徒。
 かれはこう書いている。


 グアムやサイパンでフィリピン人が大量に進出していることは知っていましたが、昨年パラオに行って驚きました。同地の総人口は一万強ですが、フィリピン人の契約労働者が六〇〇人くらいはいます〔つまり六パーセント〕。そのうちメイドさんが一〇〇人。パラオ人とフィリピン人との関係は悪化の一途をたどりつつあり、社会問題化しています。
 僕は、インドネシア研究者はパプア・ニューギニアへ、フィリピン研究者はミクロネシアにでかけてみることが必要だと思いました。パラオなんてミンダナオのすぐ東で、セブやダバオのラジオ放送が入ります。


 ここには、国境を超え実際のヒト族の動きに即して事実を追求しようという発想がある。これは、事態を素直に見ればあまりにも当たり前の考えだが、なお学問の現状では鋭い問題提起になっているのだと思う。
 私たちは、あまりにも人工的な概念でムリヤリに問題を解こうとしているようだ。ナマコの眼からすると、オーストラリアの発展を、国家の歴史として考えることは、到底できない。p.77-8

 メモ。可能ならば、人一人一人の行動や交流関係から人間社会が描ければ、理想なのだけれど。

 ともあれ、私が「赤い靴」を連想したのは、トレス海峡、グレート・バリアー・リーフ沿岸の開拓史にブラックバーディング(blackbirding)やシャンハイイング(Shanghiing)などの習慣がたびたび登場するからである・
 ランダムハウスの英和辞典によると、ブラックバードは「誘拐され特にオーストラリアで奴隷として売られた者(特にカナカ人)」だという。ブラックバードは、クロウタドリもしくはムクドリモドキ。それがどうして誘拐や奴隷になったのか、連想の経路は明らかではない。ともあれこれは、南太平洋で生まれた慣用語らしい。
 シャンハイについては辞書にこうある。「(暴力・麻薬・酒などを用いて)無法な手段で船に連れこんで水夫にする」。英国海軍が強制徴兵隊を巡邏させ、リヴァプールなどで水夫を拉致した歴史は古い。それがなぜ上海になったのか、これまた疑問が残る。
(中略)
 もう一つ、一九世紀のイギリス資料には、苦力について「ピッグ・ビジネス」という言葉が現れる。華人苦力を売り込む奴隷交易の制度である。
(中略)
 グレート・バリアー・リーフを北上してきた白人のナマコ漁、真珠貝漁船は、一八六〇年代にトレス海峡に達し、クィーンズランド州政府は、一八七六年に木曜島に税関を置いた。この年を開港としていいだろう。
 この間の記録にブラックバードが登場する。新開地の初期に、その労働を担ったのは、南太平洋諸島からブラックバードされてきた島民だった。
(中略)
 北アメリカでイギリス系の人びとが奴隷解放をめぐって戦っていたとき、オーストラリアでは同じ白人移民が戦争の余慶を受けて、奴隷交易を創設していた。これがブラックバードの世界史的な背景である。p116-7

 植民地には奴隷制度が付き物なのか。というか、この時期、イギリス本国では奴隷貿易は禁止とかいって、スペインやポルトガルや南米に圧力をかけていたんじゃなかったっけ。なにこの二重基準

 その貝殻の主要な用途はボタンである。十九世紀半ば、女物衣装にも男の服装と同じようなボタンが多用されるようになった。それは彼女たちの社会的地位の向上をあらわしていた。この頃、イギリスのバーミンガムアメリカで貝ボタン加工機が発明され、真珠貝にたいする需要が一気に増えたのである。
 ついでに書く。真珠養殖術が御木本幸吉、西川藤吉、藤田輔世、藤田昌代ら日本人の手によって完成されたために、日本の真珠研究は、ほとんどが養殖史の研究である。オーストラリア東岸のナマコ採りは季節によりトーネンと呼ばれたタカセガイを採っていた。この貝もやはりボタン材になったが、こちらの方は主として日本へ輸出された。どうやら、真珠貝の高級ボタンははイギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、タカセガイの安物ボタンは日本というふうな軽工業発展の分業があったらしい。
 こうした二重三重の事情によって、ナマコは真珠の華々しさに押され見えにくくなっている。今日、貝ボタン工業は、農村の副業として、古墳で有名な奈良県の橿原地方や淡路島に集中している。だが、木曜島へ真珠採りを送った紀州串本でも、かれらと深いかかわりのあった産業が熊野を越えたすぐ隣県で育っていたことを知る人はきわめて尠ない。p.132

 メモ。ググってみると、いまでも奈良県には貝ボタン製造は残っているようだ。→【街物語】(6)奈良・川西町「貝ボタン」〜移る景色、変わらぬ職人の心貝ボタンの町 川西町第2回 トモイを訪ねる(1)

 十八世紀になると、植民地主義は交易依存を脱皮し、内陸へと進展した。プランテーションや強制栽培が始まり、植民地は初めて本格的に資本制による世界市場へと半ば強制的に結びつけられた。この後期の時代、植民地は自給自足の伝統的産業と人為的に創出された換金作物という二つのセクターに分解した。
 これが植民地主義理解の大よその定説である。しかしナマコなどは、前述したように、立派な市場商品でありながら、決して西洋植民地主義者の手に渡らなかった。したがって植民地経済は、二重構造ではなく三重構造だったことになる。
 これは植民地主義解釈についての私の異議申立てである。「もしもしお忘れでないよ」というナマコの声が海底かな聞こえてくる。
 マルクには、プランテーションや強制栽培を実施できるような農耕面積が少ない。したがって十八世紀末に香料需要がヨーロッパで衰えると、西洋に支配されなかった特殊海産物の交易と自給自足経済だけが残り、今日に至っている。
 そしてそれはそれなりに栄えている。アル島の漁村などは、ジャワの農村より豊かにさえ見える。
 特殊海産物の多くは、中国市場へと輸出された。したがってオランダが香料交易から撤退して以後、ここは昔ながらの静けさをとり戻した。p.184

 ナマコの独自性。こういう商品というのは他にないような気がする。

 島嶼東南アジアの奴隷需要は海上交易で生まれただろうという推定について述べた。購入者が奴隷を欲する事情がこの社会にはもう一つあった。それは労働という直接の生産力よりも、権威、権力という価値観にかかわっていた。
 定着農耕が少なく、焼畑農民は動いていたから、土地の広さや所有関係は、ここでは権力の基盤になっていない。権力の基盤は、どれだけ広い土地を支配しているかではなく、どれほど多くの人間を身内に加えるかだった。こうしたシステムを、私は、移動分散型社会と呼んでいる。p.217-8

 遊牧民なんかもこんな感じだな。というか、ユーラシアのかなりの部分で、土地というか、農地そのものが不安定な代物だったからな。

 実際、串や柱などごく些末な民衆の暮しの習慣について、民衆自身は鋭い観察を残している。だが、そういう観察に眼をつけたのは、明治以後、導入された西洋学問の分類でいうと正統に加えられなかった雑学の研究者に多いのである。このことは、日本の学問史、思想史を考えるとき、たいへん重要な問題だと思う。p.274

 まあ、どうしても輸入学問というところがあるのだろうな。

 こうした政策をたてたりフィールド調査に当たった人たちは、どういう教育を受け、どこから生まれたのだろうか。漁業の近代的な学校教育が日本で始まるのは、一八八九年(明治二二)に開所される大日本水産会経営の水産伝習所からである。これが東京水産大学の前身である。このときまで、日本には漁業教育の制度はなかった。
 にもかかわらず、この頃までにかなりの質の高い調査書や政策立案が書かれている。一八九一年(明治二四)に農商務省が実施した『水産事項特別調査』は、今日から見ても高度なものだが、その立案者は、専門の漁業教育を受けた人たちではない。
(中略)
 水産教育、漁業指導で見落とせないのは、関沢などより下級の技師が地方を巡回し、優れた漁業者から智識を吸収すると同時に、実地指導に当たった役割である。記録には河原田盛美・金田帰逸・柁川温・山本勝次・山本由方・奥健蔵・松原新之助・丹羽平太郎らの名が見える。
 かれらが活躍したのは、明治二〇年代で、旧藩時代の生まれだろう。
 産業史として考えると、明治はすでに徳川期に準備されていた。p.325-6

 このあたり農学とはずいぶん違う趣だな。農本主義から自由でいられたというのがあるのだろうけど。

 日韓併合条約の締結が一九一〇年八月、朝鮮総督府の発足が同年十月。その中間の九月、統監府農工部が朝鮮龍山で印行した『朝鮮要覧』という移民推奨のガイドブックがある。著者は木内重四郎である。この序文は、朝鮮経済の位置づけ、移民推奨について、当局の思考を実に端的に示している。
(中略)
 言わんとするところは二点ある。その一つは、朝鮮が本質的には豊かな土地であるのに、それがじゅうぶんに開発されていないという指摘である。遺利とはそういう停滞の状況を指し、当時しばしば使われた。その二つは、この停滞を打破するために遅れた朝鮮人は進んだ日本人の指導に服し融合同化の実を挙げねばならないとする政策判断である。
 これは明治政府が、武装集団である屯田兵や開拓民を送りこんで北海道の土地をアイヌの人びとから奪いなら同化政策を採ったのと同じ態度である。植民地主義はしばしば慈善者、保護者の装いをまとう。p.335-6

 第一の方は、今でも使われているレトリックだな。そして私自身も部分的に有効なのではないかと思ってしまう。あと、「しばしば」というか、「常に」植民地主義は保護者の装いをまとっているのだと思う。