下山晃『毛皮と皮革の文明史:世界フロンティアと掠奪のシステム』

毛皮と皮革の文明史―世界フロンティアと掠奪のシステム

毛皮と皮革の文明史―世界フロンティアと掠奪のシステム

 うあー、やっと読了。結局、9日かかった。睡眠リズムがおかしくなっているせいでもあるのだろうけど、なかなか読み進まなかった。なんというか、内容が濃すぎて、サクサクと読めない感じといったらいいのだろうか。
 内容は、題名にあるごとく毛皮をめぐる世界史。先に読んだ、西村三郎著の『毛皮と人間の歴史』と同じテーマの本。本書の下山氏が毛皮交易の研究を進めていたのは以前から知っていたので、『毛皮と人間の歴史』を見かけた時、下山氏はショックを受けただろうなあと思っていたのだが、果たして本書の中でも、そのような記述があって、やはりなと思った。


 本書は、『毛皮と人間の歴史』と比べると経済史寄りの内容となっている。
 前半、原始から中世始めあたりは、主に毛皮をめぐる心性に焦点をおいて議論している。毛皮の持つ呪術的な力、毛皮をまとうことによって変身し、霊界との交信や「死と再生と復活のサイクル」のなかに参入する、そのような感覚がかなり長い期間にわたって人々の感性に影響を与えたこと。そのため、毛皮が貴重な品物として求め続けられたことが指摘される。
 後半は、近代世界システムにおける毛皮交易のもつ意味といった観点を中心に議論される。中世における自然観の変化によってヨーロッパにおける毛皮需要が増大、その結果、「毛皮の世界フロンティア」の拡大とそれに伴う先住民社会の破壊と奴隷化が進行する。その結果の毛皮獣・先住民の絶滅とエコシステムの破綻。このような状況を中心に描かれる。
 ハンザ同盟とノブゴロドの毛皮交易を軸とした、ロシアの拡大、モンゴル帝国の時代とモスクワの台頭、モスクワ=ロシア皇帝の王権の強化がシベリアの征服と毛皮交易の独占によって推進されたと指摘される。
 さらに16世紀以降、アメリカ大陸へのヨーロッパ人の侵出が、毛皮の入手を目的として推進されたこと。アメリカの白人社会が非常に深く、毛皮交易、それと関連する先住民の奴隷化と関わっていたこと。アスター家のような、現在にまで続くような財閥が、毛皮交易によって形成されたことが象徴的。
 最終的には、ロシアから東進したコサックとアメリカ大陸を西進したマウンテンマンによる「毛皮の世界フロンティア」が、アラスカからアメリカ大陸西海岸で合流、この地域で凄まじいラッコを中心とする毛皮獣の凄まじい殺戮が発生。さらには、この「世界フロンティア」の最後の場所が日本であり、幕末の開国に捕鯨とともに、毛皮が深く絡んでいたことが指摘される。
 ヨーロッパ人の拡大に伴って、先住民社会が破壊され、奴隷化された状況。毛皮貿易の利益の巨大さなどが印象的。北アメリカ大陸の「開発」に毛皮が不可欠の役割を果たしたことが印象的。


 ユーラシア大陸の歴史という観点から考えると、ロシアの大きさというのも印象的。そういう意味では、ロシア語を勉強する上で、ロシア語を読めるというのは結構、重要な能力かもしれないなと思う。というか、「世界史」って分野に手を突っ込もうとすると、漢文にロシア語、アラブ語、ペルシア語くらいは要求されるわけで、語学だけで死ねるな。ビザンツ研究なんかもそんな感じだけど。


 以下、メモ:

 近代世界は探検の世紀として世界規模に展開するが、『世界探検史』や『○○の冒険』と題したような著作は概して、特に若い心を昂ぶらせる傾向を持っている。前人未到のフロンティアをめざし、未知の世界に果敢に挑戦する気概や探究心は、人間の創造的活動の本質と深く関わっているからである。しかし、歴史的には、数かずの探検・冒険事業は残忍な征服活動や貪欲なまでの経済活動と表裏一体であることが多く、毛皮資源の開拓を目指した毛皮フロンティアの歴史においても、世界中のあらゆる地域で高価な毛皮資源のexploit(開発)は、毛皮獣生息地の先住民からの徹底したexploit(搾取・収奪)をも伴っていた。探検事業が営利的企業によるものであっても、時の権力者の強力な後だてを通じて行われた場合でも、そして銃器で武装したほんの数十人の毛皮狩猟団によるものであっても、先住民の受難はいずれも広範かつ甚大なものとなり、特に十六世紀以降には「人種奴隷制の展開」と言うべき苛酷な試練が世界各地の弱小先住民の身にふりかかった。北欧でもシベリアでも、そしてアラスカをはじめ北米各地のフロンティアや太平洋の島嶼地域でも、この悲惨な体制は毛皮の取引と結びついて歴史化された。改めて強調しておくが、驚くべきことに、世界中どの地域においても毛皮の取引は奴隷制・貢納制という忌まわしい社会制度と、分かちがたく大きな関わりを持っていたのである。p.5


 ただ、ウォーラーステイン自身は、そうした毛皮取引による「国際的債務奴隷制」の存在を指摘していながら、その「国際的債務奴隷制」と同等なシステムがハンザ以後にも二十世紀に至るまで拡大しつつ存続したという史実には気づいてはおらず、毛皮史の分析や毛皮取引の歴史的重要性の解明をいつの間にか忘れ去ってしまった感がある。それゆえ、彼が見落としたハンザ以後の「国際的債務奴隷制」の歴史につき、新たに実証と考察とを加えておくことが望まれる。「世界システム論」は包括的・本質的であるだけに、いわば随所の穴のように欠落した部分が多く、「穴埋め」の作業がどうしても必要なのである。本書はその「穴埋め作業」のために「世界システム論」を手がかりに「毛皮の世界フロンティア」および「人種奴隷制」という独自の分析枠を設定している。そのことと合わせて、世界システムが成立する以前の古代・中世世界の毛皮史の展開にも目を向けておくことで、毛皮という商品の果たした世界史的意義が浮き彫りにできるばかりでなく、「世界システム」展開過程における毛皮史の意義が一体どのような歴史的性格を孕んだものであるかが理解しやすくなるだろう。以上に述べた毛皮史研究の第三の課題が、本書の最も中心的なテーマとなる。p.7

 「世界システム論」って、大枠の中心・半周縁・周縁という分け方を除けば結構穴だらけだと思うけど。というか、基本的な分析の道具が「流通史」を度外視しているというか。なんであんな道具を使うのかな的な違和感がある。

 一九三〇年に至って、毛皮史研究に大きな活気が訪れる。カナダ経済史研究に大きな足跡を残したハロルド・A・イニスH.A.Innisが『カナダにおける毛皮交易の歴史:カナダ経済史序説』(The Fur Trade in Canada: An Introduction to Canadian Economic History)を公刊し、「ステイプル理論」に基づいてカナダの毛皮史の展開をイギリス帝国経済史の脈絡の中に位置づけることを提唱したのである。「序説」といいながらも四四四ページに及ぶ初の本格的な学術研究書であった。イニスは、この業績を認められてのことであろう、Encyclopedia of Social Scienceの旧版に長文の「Fur Trade」の項目を執筆、毛皮史といえば「カナダ・トロント学派のイニス」と言われる一時代が到来した。イニスの生涯と業績については、すでに豊原治郎氏一連の著作をはじめ幾つかの研究書によって詳しい紹介があるため(以下略)

→豊原治郎「Prof. Harold Adams Innisの生涯」『神戸商大論集』23-2、1971;同「カナダ経営史学の形成」『経営史学』6-3、1972;同『アメリカ流通史論考』未来社、1976;同『カナダ商業史研究序説』千倉書房、1981
 綾部恒夫他編著『カナダを知るための60章』明石書店、2003;飯沢英明「カナダの工業化とステープル理論」『山県大学紀要』6-2,1976;太田辰幸「経済発展の所与条件の一考察」東洋大学『経営研究所論集』25、1987

 とくに死者の亡き骸や動物の死骸に対して毛皮をわざわざ裏向けに纏わせる風習が広くさまざまな文明圏に存在したのは、原始・古代の人類の「心性」が、そうした風習をどうしても必要としたからである。生者もまた、単に防寒のためにではなく、「呪術的な着用」をこそ意識し、ケモノの皮を被ることでケモノの持つ力や人間にはない摩訶不思議な能力・霊力と一体化することが実感されていたと考えられる。筆者が目を通した服装の歴史の概説書や毛皮史の書物は、どれも古代人が防寒のための「実用的な必要」と「呪術的な必要」とから毛皮を利用しはじめたことを安易に併記しているが、しかし、自分たちで狩り獲ったエモノを解体しその毛皮を剥いで着用することは、そのエモノの魂や怨念をいわば直接身にまというということであり、「呪術的な必要」こそが、おそらくはより本質的な機能であったと考えてよいはずである。現代人の我われでも、鬼の面を被ったり何か棒状のもので動物のツノを真似たりすれば、「ウォー」といった不気味なうなり声を思わず反射的に挙げたくなるというのは、ごく一般的な感情であるだろう。毛皮や動物の面を装着することは、人間の原初的な生な感情に直接訴えかけるのである。p.32-3

 実際そうなんだろうなと感じる。端緒としては、実用的な必要より納得できる。

 二〇〇一年五月、ある研究者がチェコとロシア、それにイギリスで出土した五体のネアンデルタール人の遺骨と九体の現生人類の遺骨のC13同位体およびN15同位体の比率を比較、分析した。骨の同位体組成を科学的に分析することによって、ネアンデルタールの食生活の実体と現生人類の食性の特徴を比較・解明しようとしたのである。その結果、ネアンデルタール人の食性はほとんど中型・大型獣の獣肉に偏っていることが判明した。彼らの主食は、マンモスやトナカイ、ヘラジカなど、狩り獲るのに相当大がかりなプロセスを伴う中型・大型のケモノであることが立証されたのである。ワナや落とし穴、池や湖への追い込みなど、かなりの人数で対処したはずの色々な狩猟法のあったことも知られている。推測の域を出ないが、ケモノの毛皮を被り、獲物の仲間に扮装した囮猟も見られたことであろう。
 上記の分析によって、現生人類の祖先は一〇ないし五〇パーセント程度の割合で淡水魚や水鳥を捕獲して食べていたらしいことも明らかにされた。魚は干物や塩漬けにして保存食とすることもあったらしい。ネアンデルタールの食性が中型・大型獣に偏っていたということは、「腐肉あさり」どころか狩猟のみこそが彼らの主要な生活手段であり、「狩猟なくしてネアンデルタールの生活無し」と言うべきであったことを意味している。そしてその一方で、魚に豊富に含まれるDNA(ママ)など多様な栄養素が現生人類の脳の機能を向上させ、旧人ネアンデルタール)に代わって新人(ホモ=サピエンス)が環境変化にも順応して生き残った、という訳である。中型・大型獣に偏った栄養不足の旧人が寒冷化や食物資源の枯渇の激変に対応できずに姿を消す一方で、栄養バランスのより整った新人が台頭したのである。大型獣の生息数の激減や絶滅といった事態のあったことも、当然考えられるであろう。p.58-9

 ネアンデルタールも植物を食べてはいたらしいけど。まあ、食料供給減が多様な方が環境変化に強いのは確かだろう。

 P・ガクソット『フランス人の歴史』によると、レ・ゼジ一帯は「地球におけるさいしょの〈芸術の都〉というべき地域」であり、「マンモスの牙と柔らかい石が彫刻の材料として用いられた。」「日常用いる道具には必ずといっていいぐらい幾何学模様や動物のモチーフが描かれ、時にはその道具自身が馬の頭の形に作られ」たりしていた。そして、「その当時フランス全土の中でもヴェーゼル川の下流の谷ほど人の多く住んでいた所はなかった」のであり、レ・ゼジは「後のニネヴェやアテネやローマにも匹敵する場所」であった。
 残された原始遺跡はわずかであるため、現代の我われはどうしても原始時代の社会を素朴で未発達な小規模集落のイメージで捉えがちであるが、「ニネヴェやアテネやローマ」にも匹敵するといった視点で改めてレ・ゼジの風景を想像してみると、思っていた以上の喧騒や生活の「ざわめき」のようなものが見えてくる。近代になって南北アメリカの先住民社会が毛皮フロンティアの広がりと共に壊滅していゆく様を本書では後の章で詳しく辿ることになるが、その際にも、先住民社会を単に「素朴で未開なもの」と決めつけるのは史実に反した見方である。数千人規模の「町」は北米先住民の社会に幾らでも存在したし、インカ帝国アステカ帝国の首都ともなれば、ヨーロッパの都市を凌ぐ数十万の人口を抱えてさえいたのであって、毛皮や黄金を求めたヨーロッパの所業的進出は、そうした町や都市の壊滅をも伴っていたのである。ネアンデルタールと毛皮文化の関連を考える場合にも、今後は少なくとも数百人、ひょっとすれば数千人の規模の集落が営まれていたことを前提としてみる想像力が求められよう。p.64-5

 一時的な集合なら数千人規模も普通にありそうだな。

無論、高価な毛皮は富の象徴でもあって、「(海賊行為を通じて)豊富な略奪をすること」はすなわち「金羊毛に思い至ること」であった。ギリシア文化は均整の取れた優美な建築遺跡で知られるため、何か洗練された上品な世界を思い描きがちであるが、実際には史上まれにみる典型的な奴隷制社会であり、その商船隊は概して、奴隷商人・海賊の集団といってよかった。後の時代には、この貪欲な海賊根性と、先に見た聖書の積極的な自然征服観とを錦の御旗に、シベリヤや北米フロンティア、そして北太平洋一帯での近代毛皮猟が爆発的に進展することになる。毛皮の世界フロンティアにおける近代西洋文明の進展とは、つまりヘレニズムとヘブライズムの二本柱を基層としたものであった。p.102

 この「大開墾」による耕地面積の拡大とは、とりもなおさずヨーロッパ全域における森林の減退、森の民とケモノの住処の破壊を意味していた。破壊は、木々の伐採と焼却、そして戦争と狩猟を通して行われたが、常に忘れてならないのはその狩猟が内包した象徴的な意義と機能である。つまりマット・カートミルが述べる通り、特に中世社会における狩猟の重要性は、「その経済性にではなく象徴的な意義」にこそある。狩猟とは「ワイルドで自由なエモノを直接暴力的に殺す計画的行動であり、人間と野生、文化と自然の武力的対決、即ち野生に対する人間の戦争として定義される。」p.129

 本章冒頭では、ヨーロッパにおいて十一世紀の初頭以後から「大開墾」が進んだことについて述べたが、その開墾が進む森林・山野とは、闇の世界、邪教の世界であり、ケモノと共に野人や獣人といった魔物の類が住む異界であるとされていた。そうしたモノノケが跋扈する世界は、隠者となった聖人や流離の身の騎士が野人化する、一種両義的な神秘の場であった。「野人」とは、時に死者の狩猟軍団「荒猟師」の先導者となって人間世界に脅威を与える、全身毛むくじゃらの野生化・野蛮化した森の住人である。中世都市文明からの逸脱者であり、狂気と粗暴の権化ともみなされる。そうした「異界」としての森にふれて日々生活する者は賤民として差別され、まともな身分からも排除される対象となった。p.150-1

 ヨーロッパの自然観。

 ところで、そもそも「シカを逐う」ことが帝位獲得の覇業やその正当性と関連付いてくるのは、それが、いわゆる「ナワバリ」の問題と絡まっているからであろう。高価な毛皮のとれる毛皮獣を狩り獲る猟場を確保・管理し、それを維持する威勢と才覚を発揮できる者こそは指導者・王者としてふさわしく、その人物こそが共同体の「ナワバリ」を保証して集団に安全と繁栄をもたらす者である。そして、これは今に言う単なる「縄を張った領域」ではなく、おそらくは共同体成員が共有する何らかの呪術的想念を基礎とした一種の「結界」として強く意識されていたことを読みとっておかなくてはならないのである。そうであるからこそ、政の頂点に立つ王はエジプトや古代中近東ではファラオや神王として君臨し、天皇もまた「現人神」としてこそ崇拝されるに至る歴史が生まれたのである。p.110

 王権と狩猟の関係。

 実際、モスクワが毛皮取引の歴史の中で一層重要な意義を担い出すのは、十五世紀中葉以後、すなわちコンタリーニの時代以降に、この公国が南方以上に西方市場との結びつきを強めるに至ったからである。既に一四三〇年代、モスクワからポーランドプロシア、さらにはフランダースに向けて毛皮が輸出されていた史実をバルバロが書き留めていたが、コンタリーニによると、一四七六年から翌七七年にまたがる冬の間、極北の地で獲得されてモスクワに売られた大量のキツネ類やビーヴァー、白テン、リス、その他ありとあたゆる種類の毛皮を買いつけるために、ドイツ商人やポーランド商人が続々とモスクワに押し寄せていたという。その結果、従来より北方産毛皮の取引を支配していた近東系商人とヨーロッパ商人が対立する事態となった。その対立は、やがてヨーロッパ商人の優位として定着し、その優位は、以後決して揺らぐことはなくなった。p.223-4

 地中海方面での工業製品の流通の流れが逆転し、ヨーロッパから工業製品が、イスラム世界から原材料が流れるようになったのはもっと早かったか。このあたりを関連させて考えるとおもしろいと思う。

 経済史家の間では、十六世紀ヨーロッパは概ね「拡張」の時代にあったとみなされている。この世紀の内に、人口の激増・物価の急騰・遠距離貿易の飛躍的伸長、そして都市化の進展が一気に訪れたといわれるのである。ところが、この「拡張」の時代は、生態系という要素を加味して再検討してみると、資源的限界に行きあたり、いわばボトルネック・インフレーション(隘路インフレ)の危機にとり囲まれていたらしいことが推察される。早くも中世末期において毛皮という一種の森林資源が生態学的な枯渇の危機に瀕していたことについてはすでに前章までにコメントしておいたが、農地の不足はいうに及ばず、製鉄用高炉の普及などによる木材の不足と、漁法・食習慣の変化に基づく水産資源の枯渇は、とりわけ深刻なものであった。急激な人口増は、あらゆるネックの根源となった。p.226


 というのは、Indian Tradeの一方の当事者であったインディアンの側にとっては、新来の白人との「取引」は、第一には友誼の証を得るための政治的な(あるいは儀礼的な)行為であり、交換だとか売買といった経済学で通常用いている概念は直接には当てはまらないからである。インディアン達にとっては、交換によって財を得ることが目的なのではなく、友好関係や共同体内での名誉を得ることにこそ、交換以上の絶対的な価値があった。たとえば、ヨーロッパの商人との間で毛皮と「交換」したやかんはやかんとしてよりもばらばらに細分化して飾り物や矢尻として利用された。つまりや利子や利得を得ることは第一義の問題なのではなく、自己の特異性や有能ぶりを誇示することによって、自分が所属する村や集落の中で一定の名誉を獲得し、またヨーロッパ人との間に信頼に足る友好関係を創出して維持することこそが、第一義の目的なのであった。
 このことを理解するには、文化人類学などで未開経済を分析する際のひとつのキイ概念となっている「贈与」「贈答」「互酬」だとか「ポトラッチ」、それにK・ポランニーが言う「交易港」という概念などに目を向けておく必要がある。今では手頃な邦語の参考文献も幾つかあり、「贈与」の理論や「交易港」の概念を盛り込んで植民地期アメリカの商業史・経済史に詳しく論及する必要はないが、(以下略)p.248


 むろん、戦争勃発の直接的な契機がこのオハイオでの毛皮権益の争奪にあったとはいえ、「北米大陸における英仏間の関ヶ原の戦い」とたとえられるほどのエポック・メイキングな戦争であったフレンチ・アンド・インディアン戦争の原因は、決して単に毛皮フロンティアの推移をたどるだけでは理解し得ない多面性を持っている。そうした多面性や複雑性を理解するためには、たとえば四元忠博氏が鋭く分析したように、西インド諸島における英仏両国の長年にわたる角逐をも併せ考察することなどが是非とも必要と思われる。(中略)結局、毛皮フロンティアの歴史の流れを分析するに際しては、西インド植民地、北米大陸植民地との連動を考え併せながら、「ヨーロッパ諸国の侵攻により、カナダからブラジルに至るまで一個の有機的なプランテーション社会が成立していた」との観点に立って、毛皮を煙草や砂糖などの植民地ステイプルズと同様な枠組みの中に位置づける作業が必要ということになるのである。p.256-7