小谷賢『日本軍のインテリジェンス:なぜ情報が活かされないのか』

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)

 戦前の日本軍のインテリジェンス活動、情報の意思決定への利用について概括的に検討した書物。後半はちょっと重複が多い感じもするが、大まかな見取り図を得ることができる。
 前半は陸海軍の情報収集機関について。暗号解読や通信量の観測などの通信情報、スパイなどの人的情報、防諜の三分野を扱っている。陸軍の情報組織がそれなりに成果を上げていたこと、特に暗号解読の分野やマレー作戦に先立つ調査活動ではそれなりに成果を上げていたことが指摘される。また、対ソ諜報が重視され、何度もスパイを送り込んだが、ソ連の防諜活動によってすぐに摘発され、逆に二重スパイを送り込まれていた状況。国境の観察、公開情報やシベリア鉄道を利用する外交伝書使による調査などで情報を得ていたそうだ。一方で、対アメリカの情報収集はまるっきり空白状態で、専門部局の設置も遅れたことも。一方で海軍の情報収集の章では、情報センスの欠如が指摘される。無線の方向探知を利用した分析からある程度、米軍の意図を察知することができたが、ヒューミントに関しては、ラットランドらの送りこんだスパイが英米の監視下にある状況や、防諜の不徹底が明らかにされる。暗号書類の漏洩や解読されている可能性に気づかなかったあたりは、やはり問題だろうな。後始末の問題も。
 第四章は集められた情報がどう分析・利用されたかについて。軍上層部の無理解、作戦部至上主義から、陸海軍とも、情報部局は冷遇され、重要な判断局面で無視されることが多かった。また、人事がローテーションだったため専門家が育たなかった状況も指摘される。作戦部門が独自に情報を収集し、マレー作戦や北部仏印進入などでは成功しているが、三国同盟独ソ戦の判断や台湾沖航空戦の成果の誇大報告などにつながった。また、「情報の政治化」によって、生データが恣意的に利用された状況も指摘される。
 第五、第六章は、実例。開戦時、マレー戦前後の日本と米英が、相互に相手をどう見ていたのか。あるいは戦略的な判断と情報。英米が日本を完全に軽視していた状況、それに対して日本は情報が新しかったために偏見が少なかった状況。イギリスやアメリカにしても、バイアスから逃れられず、重要な情報を見逃がしているのが興味深い。一方、情報が新しかった日本は、相応に的確な分析をしているが、その後日本が戦勝に驕って情報のアップデートを怠ったのに対し、英米は敗北を教訓に情報をアップデートし、状況が逆転したとする。また、後者の戦略的判断での情報利用はより興味深い。三国同盟の締結時には、バトルオブブリテンがイギリス優位になりつつあり、また独ソ間の関係も悪化しつつあった。それにもかかわらず、日独伊ソの四国同盟にこだわった松岡洋祐や三国同盟へと焦る参謀本部がその情報を無視したこと。独ソ戦開戦の情報をいち早くつかんでいたにもかかわらず、戦略の検討につながらず、放置された状況が指摘される。現在にも続くセクショナリズムの問題。最後のハルノートの事例については、この時期に至ると情報解析の能力はあんまり関係ない気がする。外交的な失敗が累積して、選択肢が激減していたわけで。しかし、ハルが妥協策を考えていたのに、一夜で強硬策に出てきたのはなぜなんだろうな。
 第七章と第八章はまとめと教訓。現在も続く(のか?)、課長クラスの調整で政策や戦略が決められ、調整に時間と手間がかかるため硬直的かつ情報軽視になりがちなこと。これについては難しい話だなと思う。むしろ、トップダウン的な英米では、組織につきもののセクショナリズムとどう付き合っているのか。それが気になる。ドイツあたりは、よりセクショナリズムが強かったと本書でも指摘されているし、そのあたり国ごとの組織文化の違いを考慮しながら、より広い範囲で比較する必要があるのではないか。あとは、政策と情報の距離というのも、なかなか難しい。イラク戦争では、政策側がなにがなんでも開戦したいからそれに適した情報を上げろというリクワイアメントに対してインテリジェンス・コミュニティはどう対応するべきだったか。人間の組織に正解はないのだなと感じる。
 現在でも日本の政策決定に関しては、インテリジェンス不在が著しい。先般の東京都の青少年健全育成条例についても、実際の規制状況や青少年と性的な情報の接触状況などが全く考慮されず、観念先行で制定されてしまった。あるいは、教育や福祉でも同様に観念先行の議論が見られる。ゆとり教育でも、理念はともかくとして、教育を受ける側や企業などの教育の結果としての人材になにを求めているかを軽視した結果、理念とは裏腹の結果を出してしまったように見える。そのあたりで、この「インテリジェンス」の問題というのは、非常に重要な問題だろう。


 以下、メモ:

 逆に、捕虜や鹵獲書類といった情報源は戦争中に特有のものであろう。軍令部第三部五課(米情報)において実松とともに働いた今井信彦中佐は、神奈川県大船の捕虜収容所で実際に捕虜に対する尋問を行っている。今井の記録によると、尋問の方法は誘導尋問が主であり、捕虜の個人的な身の回りのことから話し始め、それとなく捕虜の乗っていた艦船の話やどこに滞在していたのかをできるだけたくさんの捕虜から聞き出し、それら話の断片を後で統合する形をとっていた。
 今井によると「本人は何を聞かれているかわからないから適当に話すけれども、こちらは気づかれないよう、各方面から何本も方位線を入れてみる」という方針であった。これは強引に聞き出そうする手間を省くことが出来たし、偽情報を掴まされる危険性も少なかったという。これに関して今井は以下のように述べている。


 潜水艦の場合は、大体いつごろ香港を出て、ハワイにいつ頃入港して、何日間ぐらい滞在して休養をとり、どこへ向かって出港し、作戦海域に何日ぐらい出て、どんな戦果をあげて、またハワイへいつ頃ついて何日いたか、と言う一連のサイクルの動きが正確に分かってくる。之を米国の全潜水艦の数から逆算すると、この海域には常時何隻ぐらいの潜水艦がいて、どの範囲まで行動しているかの推定図が出来上がる。p.16-7

 興味深い。手間がかかりそうだが。

 また一九三七年七月、盧溝橋事件を受けて、近衛文麿首相は宮崎龍介秋山定輔を日中和平の密使として南京に派遣しようとしたが、この動きは中国暗号を解読した陸軍に知られる所となり、宮崎は神戸で、秋山は東京で憲兵隊に逮捕されている。この事例から判るように、軍部は首相周辺や外務省の動静を通信傍受によって把握していた。p.34

 本当に亡国の軍隊だな。

 そもそもインテリジェンスという営み自体が。軍隊の指揮命令系統(Chain of Command)に合致していないのである。インテリジェンスの過程で重要なのは、情報分析、評価を効果的に行うための情報共有である。しかし軍隊組織ではどうしても組織間関係が上下関係となりがちであるので、「作戦」と「情報」が水平的に連携し、情報を共有できる余地が少ない。例えば同時代のアメリカも陸海軍が情報部を有していたが、この仕組みはほとんど機能しなかった。従ってアメリカの場合は、戦後に強力な権限を有する中央情報部(CIA)を設置してこの問題を解決しようとしたのである。
 他方イギリスにおいては、情報組織が政府官庁や軍部との横断的な協力関係(Collegiality)を実現するために膨大な労力が注ぎ込まれた。その結果、情報コミュニティーの内部や、情報サイドと政策サイドとの間で円滑な情報共有が実現したのである。このイギリスの組織形態は、「情報は共有されなけれなばらない」という考えに基づくものであった。p.120-1

 インテリジェンスが有効に機能するためには、組織間の水平的協力関係と情報の共有が不可欠である。しかし軍隊の組織構造上、この問題を解決するのは困難であり、結局陸海軍における情報部の地位は低いままであった。p.139


 大島情報の問題は、いかに時局に合致した情報でも、すでに部局内の調整によって得られた方針を変更することは困難である、という命題を提示している。森山優に拠れば、陸軍内の政策決定過程だけでも、まず課長級が中心となって部内の意見を取りまとめ、そこから参謀本部作戦部長、陸軍省軍務局長、陸軍省次官、陸軍大臣参謀本部総長の決裁を経て陸軍の試案が生み出される。さらにそこからも海軍を初めとする他省庁との調整を行わねばならず、このような仕組みは煩雑そのものである。その結果、政策決定過程で必要とされるのは、情報に基づいた合理的な案ではなく、各組織の「合意」を形成できるような玉虫色の案と根回しとなり、そこに多大な時間と労力が割かれることになる。そうなると情報収集も他部局、他省庁、政治家の意向といった調整対象に向けられていく。p.182

 今現在はどうか知らないが、最近までこんなのが基本だったよな。しかし、こういうのは他の国でも多かれ少なかれあるものだとは思うが。

 また、政策と情報の距離に関してはつねに慎重にならなければならない。政策と情報の距離が近すぎると、情報は政治化されてしまう。これは、三国同盟を締結するにあたって、松岡外相が意図的に情報を取捨選択していたようなものである。一方、距離が遠すぎると、今度は情報が見向きもされなくなってしまう。戦後長らく、日本のインテリジェンス・コミュニティーはこのような状況に甘んじてきた。理想としては、情報が政治化されてしまうことなく、かつ常に双方で情報のやり取りできるような距離を保つことが望ましいが、これは困難な課題となるだろう。p.211