- 作者: 繊研新聞社編集局
- 出版社/メーカー: 日本実業出版社
- 発売日: 2006/01/26
- メディア: 単行本
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ところで、「手が届くラグジュアリー」というようなカテゴリーのブランドが伸びているという話が載っているが、それって「ブランド」の自己否定じゃねと思った。トレンドの持続期間が短くなっているというのも含めて、「服」というものの価値が低下して、頻繁にモードを買えるくらいしか差異化することが出来なくなってきたということではないだろうか。
以下、メモ:
日本のアパレル市場は輸入が命脈を握っている、と言っても過言ではない。1985年のプラザ合意以降に進んだ円高が日本市場に輸入増大をもたらし、20年が経過した現在、日本のアパレル市場における輸入品の浸透度はすでに90%を突破し、国内生産にはわずかなシェアが残るばかりの状況となっている。統計でみると、2004年のメンズ、レディスを合わせたアパレルの輸入数量は34億6735万点。これに対し、国内生産は1億6749万点。輸入と国内生産の製品を合わせた供給量に占める国内生産の割合はたった4.6%だ。さらに、2005年1-7月の割合は4.2%となり、輸入増・国内生産減という構図が続いている。
円高がもたらす国内生産や輸出の減少、輸入の増大という影響は、アパレル製品に限らない。自動車や家電など他の産業においても同じだ。しかし、アパレル製品については戦後間もない時期から、クオータ(輸入割当)がなかった。つまり、過度な輸入の増加を制限して国内縫製業を保護する政策を国がとってこなかったため、日本のアパレル市場では、今日のような極端な輸入偏重の供給構造ができあがったといえる。p.60
なんつーか、日本の縫製業息してないってな感じだな。
テキスタイル(織物、編物)を生産する繊維産地は全国に大小合わせて150ヵ所ある。養蚕業は奈良時代から甲斐(山梨)、信州(長野)、美濃(岐阜)、近江(滋賀)などで盛んになった。綿花栽培は江戸時代から泉州・河内(大阪)、尾張(愛知)、三河(静岡)などで発展、これらの地域が繊維産地になっていった。現在、主な繊維産地は綿織物が静岡、愛知、大阪、岡山など、毛織物が愛知、大阪など、化合繊織物が福井、石川など北陸地区、ニットが山形、新潟、北陸、和歌山、大阪などにあるが、各産地とも輸入品の増加で縮小を余儀なくされている。とくに日本が繊維輸出国から輸入国になる1986年以降、縮小の道を歩み始め、1990年代に加速、現在はほとんどの産地の企業数が1990年代初めに比べて半減以下となっている。p.106
業界用語ミニ解説
【日・中・韓ライン】東アジアの機能を生かした低価格対応の生産形態。コストが低い中国や韓国の協力工場で加工前の生地を生産し、高度な技術を要する染色加工工程だけを日本国内の産地で行う。加工前の生地の品質が悪いと、染色加工段階でトラブルが発生するケースもある。p.109
これって、16-17世紀あたりのオランダやベルギーの毛織物工業みたいで興味深い。当時の低地地方は、イングランドで低価格で生産された白布を輸入し、工業都市で染色仕上げを行って付加価値をつけて、中東欧方面に輸出していた。同じパターンが日本でも起きているのだな。
さらに1990年代に入り、インポートブランドブームを迎えると、優秀なパタンナーを求める声はますます強まった。ヨーロッパから輸入された商品のパターンの良さ、ひいては着心地の良さに接したことで、日本製品のパターンのレベルを引き上げる必要性を痛感させられたからだ。
ヨーロッパ、とりわけイタリアと日本のアパレルの生産技術に大きな格差があるといわれる要因の一つに人材の問題がある。イタリアには生産に関する情報を統合して製品をつくり上げるモデリスタと呼ばれる技術者集団がいるが、日本にはこうした人材はほとんどいないのが実情である。高級品であればあるほど高いレベルの技術が要求される。競争力の強化のためには、横断的な技術や知識を備えた専門家を育成するシステムの整備が必要だろう。p.191
デザイナーが基本設計で、パタンナーが詳細設計みたいな感じか。このあたりの伝統の蓄積は大きいのだろうな。
1980年頃に、ファッションの世界では原宿に「竹の子」族が発生、これまでのティーンズとまったく異なる鋭い感性を持った若者が登場した。彼らの心をとらえたのが、三宅一生、山本耀司、川久保玲といったデザイナーであった。DCブランドの誕生である。p.221
このあたりが日本の社会の転換が明確に表れてくる時代なのだろうな。