河田惠昭『津波災害:減災社会を築く』その2

津波災害――減災社会を築く (岩波新書)

津波災害――減災社会を築く (岩波新書)

 付箋を貼った場所が多すぎて、書き切れなかったので続き。非常に実践的な観点から書かれている。来るべき南海地震を考えると、知っておいて損はない知識ばかり。西日本の人も真面目に読むべし。よく考えると、南海地震津波は大阪を襲うことが予想されているから、県庁や市役所を南港のATCに移転するというのは、震災時に自治体が非常に脆弱になるということだよな。そう考えると、例の「天の恵み」発言も、大阪限定では当てはまるかもな。移転が決まる前に、津波で移転案がけし飛ぶ。それが多くの人を救うかもしれないという点で。言い方は酷いけど…

防波堤と津波

 「高い波」と考えると、つぎのような誤解が生じる。「高さ四メートルの津波がやってきても、護岸や堤防の高さが五メートルあるから、水門さえ閉めれば市街地はん濫は起こらない」というものである。しかし、高さ四メートルの津波とは、「四メートルの水面の高さをもつ早い流れ」であるから、護岸や防波堤に衝突すると、前進できなくなって盛り上がるのである。正確に言えば、津波が護岸や堤防にぶつかった瞬間、津波の運動エネルギーがゼロになり(前進できなくなって水の運動が停止する)、これが瞬時に位置エネルギーに変換され、海面が盛り上がるのである。理論的には衝突前の1.5倍くらい高くなる。つまり六メートル近くなるのである。
 このような理由から、海に面して高い護岸や堤防があるからといって、大津波警報が出ても、避難しなくてもよいと考えるのは早計である。しかも、津波が衝突して高さが高くなるだけではない。進行中の高速で大量の海水の前進がストップさせられるので、衝撃的な圧力が働く。そのために、防波堤や護岸が破損することが起こる。一般に、海岸の護岸や堤防の設計は、外力として高速の津波を考慮していない。だから、津波が来て壊れた海岸構造物や施設の事例が報告されている。p.17

 わが国の沿岸部に建設された海岸護岸や堤防の高さは一般にその海岸に三〇年(特に重要な場合は五〇年)に一度くらいやってくる大きな波を対象に決定している。大きな波は台風や日本海であれば冬の季節風が吹いているときにやってくる。風が原因で起きるから風波(かざなみ)という。海岸護岸や堤防の被災は、設計波高を上回る三〇年や五〇年に一度やってくる風波で起こる。
 そして、一般に海岸護岸や堤防は、そこにやってくる津波を考慮して作られていない。将来10メートルの高さの津波が襲来する危険な海岸でも、海岸護岸や堤防の高さは四、五メートルしかないのが現状である。津波を考慮すれば、巨大な構造物になり、その建設費用は莫大になる。津波常襲地帯といえどもそのような建設は不可能である。
(中略)
 だから、海岸護岸や堤防が海側に設置されていても、大津波警報が発令されたら、とりあえず避難しなければならない。大津波警報は高さ三メートル以上の津波の来襲が予想される場合に、発令される。だから、もし10メートルの高さの津波がやってきたら、どのような海岸護岸や堤防があっても津波は乗り越えて、背後の市街地に津波はん濫が起こる。p.28-9

 津波は漢字で「波」と書かれているために、海岸に打ち寄せる波と同じであると誤解される。津波が湾内や港内に入ってきた場合には、波というよりは流れと考えた方が、その挙動を正しく理解できる。
 たとえば、高さ五メートルの防波堤に高さ八メートルの津波が押し寄せた場合、津波はこの防波堤を乗り越える。そのとき変化が起こる。防波堤に津波が衝突すると、海底から深さ五メートルまでの津波の水粒子が防波堤で止められて前に進めなくなる。その瞬間、海底から五メートルまでの津波の運動エネルギーは位置エネルギーに変換される。このため、防波堤上で海面が三メートルよりもさらに盛り上がって通過することになる。図2-3はこの様子を模式的に表したCG画面である。堤防(水没している)上で水面が盛り上がっている様子がわかる。そして、防波堤を越えた瞬間に水塊が三メートル以上の落差をもって港内側に落下するので、激しく防波堤の脚部を洗うことになる。下手をすると海底の洗掘が発生し、防波堤が横倒しになってしまうことが起こる。p.57-8

 釜石や宮古で見られた光景だな。ある程度以上の津波は、防波堤では防げないと考えるべきなのかも。予想される波高の1.5-2倍の堤防となると、とんでもないでかい施設が必要になるしな。

 津波の大きさを低減させるには、湾口の大水深部に津波防波堤を作るのが一番効果的である。岩手県釜石市や大船渡市は際立って安全になっている。高知県であれば須崎市である。p.166

と言われた釜石も大船渡も津波で大損害を受けているしな。逃げるが勝ちというのが真理なんだろう。
「世界一」の防波堤、津波で破壊されていた


映像:http://www3.nhk.or.jp/news/jishin0311/movie/chapter_18.html
   http://www.youtube.com/watch?v=NztouaHuCXw

津波に対する心構え

 彼らはすべて徒歩で指定避難場所に避難したわけではない。車で家を出発し、高台や山を目がけて運転した人もいたのである。東方沖地震の現地調査をしていたとき、浜中町から西へ60キロメートルも車で逃げてきたという住民に出会った。どうしてそのような遠距離を避難してきたのかと尋ねた。すると答えは、「山に向かう道路がすべて車でいっぱいで渋滞していたので、つぎの山道をめがけて運転して来たら60キロになってしまった」ということだった。
 北海道は10月ともなれば夜は寒い。避難勧告が発令されたからといって、避難所まで徒歩で避難するのは遠すぎる場合もあるし、寒いという理由はよくわかる。そこに、高齢者や乳幼児が加われば、車で近くの高台や指定避難所へ避難ということも言下に否定できない。では、一体どのような注意と工夫がいるのだろうか。まず、注意点としては、1信号のない交差点を通って高台へ避難できること(停電で信号が消えると大渋滞する)、2鉄道の踏切を通らないこと(停電で踏切の遮断機がおりたままになる)が挙げられる。さらに、つぎのようなルールを作り、守らなければならないだろう。
 (1)津波避難で山道に入ったら、少なくとも10キロメートル以上は山道を上がることである。先頭の車が自分の安全のことだけ考えて山道を100メートルくらい入って停車すると、後続の車はそれより先に行けない。山道はほとんどが一車線だからだ。こうなると100台くらいしか安全な場所にたどり着けない。
 (2)山道にたどり着いたところで渋滞したら、あっさりと車から出て徒歩で避難することである。それくらいの覚悟がなければ、車で避難してはいけない。
 すなわち、車で避難する場合には、津波地震後どれくらいしたら来襲するかという情報を事前にもっていなければ危険である。このように車で避難を可能とするには、車で避難する人が津波避難に関する基本的事項を合意し守ることが前提である。これがなければ危険である。p104-5

徒歩で避難所へ
 避難は徒歩が原則である。まず、津波の恐れがあるときに、どこに避難すればよいかを事前に調べておく。近地津波の場合は、市町村からの避難勧告が間に合わない恐れがある。大津波が来襲するところは、地震の震度も六弱から六強であるから、素人判断しても間違うことはない。一分以上、三分程度揺れたら間違いなく津波がやってくる。避難所は原則、地区の小学校か中学校である。わからなければ、市町村の防災課か、なければ総務課に問い合わせればよい。1事前対策と2事後対策に分けて説明しよう。


1、事前対策
 (1)津波ハザードマップを市町村から入手するとともに、過去にどのような津波がやってきたのか、これkらやってくる津波(以前のものと違うことはよくある)による浸水域を知ること。2010年現在、321市町村で津波ハザードマップを作成済みであり、そのうち232市町村ではインターネットで公開している。市町村の津波ハザードマップの作製率は50パーセント強と推定される。また作成していない場合は、作成するように住民から直接請求すればよいだろう。そういう時代である。とくに自治体の首長の防災意識が低い場合は、催促しなければ、財政的な理由から先送りされるだけである。
 まず、自分の家の地図上の位置を知る。つぎに、指定避難所の位置である。そして、そこに至る避難路の候補を二、三考えてみる。必要な要件は、二車線以上の幅員の道路であり、かならず水平か、上り勾配の道路を選ばなければならない。間違っても川や海に近い道を選択してはいけない。
 (2)避難所が数百メートル以上遠方にある場合は、途中で津波に追いつかれる恐れがあり、一時的に避難させてもらえる避難ビル(通常、鉄筋コンクリート造三階建て以上の建物)を知っておくこと。利用に際し、事前に自治体とビル所有者との協定が必要である。まだこの作業をやっていない自治体も多いので、これをやっていないようであれば実施するように催促する必要がある。住民の津波防災に関する関心の程度によって自治体の対策の進捗度が決まると考えてよい。
 (3)指定避難所の門や建物の鍵を誰が管理しているか知ること。通常は、避難所周辺の町内会や自主防災組織の会長と幹事がもっているはずである。そうでなければ、鍵を壊して入らなければならない。
 (4)大切なもので水没して困るものは、日常的に自宅の二階以上に置いておくようにする。


2、事後対策
 (1)避難所の到着したら、講堂や体育館が津波の浸水に対して安全であれば問題はないが、最悪の場合、避難所が浸水する恐れがある。そのときには一階ではなく上階の教室から優先的に入室する。
 (2)各部屋の世話人を早急に決め、各人がいきなり苦情をいうようなことは避ける。そして、危機が去るまで、既述のように近地津波の場合は六時間、避難所で待機するように心がける。
 (3)高校生以上の住民は、避難所の運営に協力する。たとえば、非常食の配給や避難者名簿の作成など、やらなければならないことはいっぱいある。避難者はお客様ではないのである。p.106-8

知識が行動に結びつくには、行動を起こすことに対する意識上の障壁を低くすることが大切である。阪神・淡路大震災のもっとも重要な教訓の一つは『災害時には日ごろからやり慣れていることしかできない』ということである。言い換えれば、『日頃やっていないことは失敗する』ということである。これは広義の「備える」ということである。p.165

 このあたりはマニュアル化して、練習を繰り返しておく必要があるのだろうな。

明治・昭和三陸津波の事例から

 被災社会で大きな問題になったのは、つぎの三つの事項である。もし同じような津波災害が起こった場合、果たして被災地の復興が可能かどうかを検討した。
 (1)家系の断絶:一家全員が死亡した場合や夫婦のどちらかが死亡した場合には、親戚が集まって家系の再興が図られた。一家全員がなくなった場合には親戚縁者が家系を継続し、かつ義援金をもらって家を再興した。夫婦のいずれかが亡くなった場合には、生き残った者同士の再婚によって家系の継続が進められた。このような家系の復興は現在では不可能であろう。少子化のために養子などに出せる子供がいないことが原因である。
 (2)高地移転:実に43カ所で高地移転が行われたが、半農半漁の生活に不便なことや飲み水が容易に得られないことなどが原因で、10年経過すると大半が元の集落に戻ってしまった。そこが、昭和三陸地震に襲われ、再び大きな犠牲を払うことになった。
 図1-9は岩手県田老町の海抜10メートル(高さ7.7メートル)、総延長2.4キロメートルの津波防波堤である。この防波堤は当初、住民の自助努力で建設が進められた。しかし、完成後、高地移転者が旧市街地に戻ると同時に、この防波堤の海側にも現在市街地が展開している。表1-3に両三陸津波災害の死亡率を示した。現在のように自動車があれば、高地での生活も不便はないが、高齢化が進んでいるので、自動車をいつまで使えるかどうか疑問であり、やはり高地移転は無理である。
 (3)漁業の復活:たとえば、岩手県沿岸では津波によって全漁船約7500隻のうち約5000隻が失われたと言われている。その復旧の困難さと、肝心の漁師の数が不足することによって、漁業の再興に時間がかかった。1897年末現在で生存していた壮年漁師は5734人で、実際に漁業に従事している者は574人、一割であったという。現在であれば、遠洋、近海漁業のみならず養殖漁業も壊滅する。それは2010年チリ沖地震津波で証明済みである。したがって、現在、同規模の津波が来襲すれば致命的な漁業被害をこうむり、復活も絶望的と言わざるをえない。p.37-9

 再現されてしまったわけだが、実際漁業の復活は相当苦しいだろうな。高地移転はそれなりに進むかもしれないが、孤独死などの問題はおきそう。家系に関しては、重要性が下がったかもしれないが。

その他

 一方、鉄筋コンクリート造の建物はどれくらいの津波高さまで大丈夫であろうか。その答えが2004年インド洋大津波で明らかになった。図2-2は、タイ・カオラックの三階建ての鉄筋コンクリート造のホテルに高さ10メートル(そのときの流速は、毎秒8メートル)の津波が来襲した後の写真である。鉄筋コンクリートの柱は十分破壊に耐えていることがわかる。この情報は、わが国の津波避難ビルの選定方針が妥当であることを証明した。なぜなら、避難ビルの選定では、三階建て以上の鉄筋コンクリート造の建物を指定することを原則としているからである。p.57

 まあ、三階建ての屋上まで水を被ってしまうと、いくら建物が残っても意味がないわけだが…

 その他にも、いろいろ課題はあるが、要は情報が「正確、迅速、詳細」に伝われば被災者は減るというような単純な考えは通用しないということである。被災する危険のある人が的確な行動をとるために、どのように情報を活用するのかという視点が必要である。これは津波情報には限界があるということである。p.103


 私はかねてより『水は昔を覚えている』と主張してきた。昔、海だったところや湿地帯だったところに市街地などが発達しても、いったん、洪水や高潮、津波はん濫が起こると、昔に戻って、また海や湿地帯に戻るということである。明治維新後、鉄道が敷設される過程で、大きな駅の用地が旧市街地内に確保できず、その縁辺に作られた。たとえば、JR東京駅の「八重洲」や大阪駅の「埋田(今は梅田というように漢字が変わってしまった)」はそれを如実に示している。p.136-7

 私なら、「地形は元に戻ろうとする」と表現するところだな。宮城県から福島県の海岸の平野がまさにその通りの様相を示している。