【転載】宮城資料ネット・ニュース98号(2011年3月27日)

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 今回の津波の浸水地図を見ると、江戸時代の街道が、津波の及ばない山裾を走っているという指摘。京都と奈良を結ぶ旧道も、だいぶ高いところを走っているらしいし、名取周辺の平野がかなり低湿だったように見えることを考えると、もともと乾燥して地盤が安定した山裾を走っていたことは、意外ではないように思うのだが。水害の危険を避けたのではないだろうか。
 しかし、以下の指摘は興味深い。

 現在私たちは、これらの宿場は最初からこの地にあったと考えていますが、この
津波浸水域図を眺めていると、あるいは別な可能性も想定しておくべきかもしれま
せん。つまり慶長の大津波を経験したことによって、宿場や街道が、津波の到達し
にくい、より山沿いに移動した、という可能性についてです。検討してみる価値は
十分にありそうです。

 このあたり、地質学的、考古学的な発掘調査で、過去の地形を再構成すれば、それなりに証明できる問題ではないかと思う。もし、移動していたなら、過去の宿場の遺構が検出されるのではないだろうか。
 ほかの街道との比較が必要な問題。