田原坂の戦跡

 最近、国史跡指定を目指して田原坂の戦跡の発掘調査が進んでいるらしい。その結果、いろいろと興味深い成果が上がっているようだ。官軍側の二俣瓜生田砲台跡では、四斤山砲のわだちの跡が検出されているそうだ。そういうのもはっきりと残るものなのだなあ。
 大分あたりでも戦跡の調査や発掘が進んでいるようだし、広域連携が進むと、今までの証言や文献からの西南戦争像とは違ったものが見えるかもしれないな。広域連携を目指しているそうだが、実際に進むことを期待。
 そう言えば、熊本平野の東部、大津から健軍、御船にかけては、熊本城解囲後体制を立て直した薩軍と官軍が衝突した古戦場なわけだけど、住宅地化が進んでいるし遺構は破壊されているだろうな。

攻撃の様子くっきり
 1877(明治10)年の西南戦争時に官軍が薩軍の守る田原坂を砲撃したといわれる玉東町の二俣瓜生田砲台跡から、官軍が使用していた大砲の轍跡とみられる遺構が見つかった。調査した玉東町教委は「野戦砲台の調査は国内初で、野戦の痕跡をはっきりと検出できた稀有な例。当時官軍がこの砲台から田原坂をどう攻撃したかが分かる貴重な資料」と話している。
 町教委はことし5-8月、同砲台跡の約3千平方メートルを調査。約10メートルにわたって平行に走っている幅6〜15センチ、深さ3〜5センチの細い溝2本を確認。両溝開は約83センチで、内輪差や溝の幅などから西南戦争時に官軍が使用した「四斤山砲」と呼ばれる大砲の轍の跡と判断した。
 轍の先端には踏み固めた地面が出土。この場所に大砲を置いて攻撃した可能性もあり、轍はこの位置付近まで大砲を運ぶ際についたとみられる。
 轍跡はほぼ東西に走っており、轍の東側の延長線上約1キロ先には当時薩軍が守っていた田原坂を含む植木台地が広がる。同町と連携して西南戦争遺跡群の保存活用に取り組む熊本市教委文化財課植木出張所の調査でも、田原坂から南側一帯で砲弾片が見つかっており、大激戦といわれた田原坂の戦いの状況がうかがえる。
 今回の調査では、轍跡のほかに、山砲の発火に使用される摩擦管類や官軍の帽章、大砲を撃った後の不要な機材を入れたとみられる土坑2基も出土している。
 町教委によると、当時、この一帯には大砲が最高12門配備されたとされ、町教委は「ほかにも砲台施設はあったと考えられ、確認するために今後も調査を続けていきたい」と話している。(浪床敬子)


 西南戦争時に官軍が薩軍の守る田原坂を砲撃したといわれる玉東町の二俣瓜生田砲台跡から、大砲の轍跡とみられる遺構が出土。熊本市植木町田原坂周辺からも攻撃を受けた痕跡が見つかっており、133年前の田原坂での激戦の様子が浮き彫りになりつつある。玉東町教委と熊本市教委文化財課植木出張所の連携した戦跡調査の成果が形となって表れた格好だ。
 旧植木町と玉東町は2009年夏、両地域にまたがる西南戦争の戦跡を連携して保存活用しようと、文化庁や県、学識者らを交えた「西南戦争遺跡群連携保存活用協議会」を発足。自治体の枠を超えた全国でも珍しい広域的な取り組みとして、戦跡の調査研究や周知事業、保存活用策の検討を進めている。
 今回も、玉東町教委が官軍の攻撃拠点となった同砲台跡で発掘調査を実施。市教委植木主張所側が攻撃先となった田原坂など植木台地一帯で聞き取り調査などを行っている。
 玉東町教委の調査では、同砲台跡で見つかった轍跡のサイズや向きから、大砲の種類は「四斤山砲」と推定。約1キロ先の植木台地を向いて配備されていたことが分かった。市教委植木出張所の調査でも、田原坂より南側一帯で砲弾片が見つかっている。
 玉東町教委の宮本千恵子学芸員は「二俣瓜生田砲台から田原坂への攻撃が、どのような状況だったかが具体的に分かったのは初めて」と話しており、伝聞や記録に残る田原坂での激戦の一端が裏付けられた格好だ。
 一方、両教委は9月上旬、より広域的な連携を目指して鹿児島県を訪問。隼人文化研究会と鹿児島地域史研究会の合同例会で調査の成果を報告し、西南戦争に関する情報提供を呼び掛けている。
 熊本市教委植木出張所の中原幹彦さんは「田原坂一帯は薩軍が支配していた地域が多く、鹿児島にはさまざまな記録が残っていると思う。2市町にとどまらず、西南戦争に関係する鹿児島や宮崎、大分を含めた南九州一帯の広域連携による保存活用を目指しており、今回はその第一歩」と話している。
 両市町は、地域内に点在する西南戦争戦跡群の国史跡指定を目指しており、今後の広域連携の成果が注目される。(浪床敬子)


 熊本市教育委員会は17日、西南戦争薩軍が陣地とした同市植木町田原坂公園内で、塹壕跡2ヵ所や当時の最新式小銃の薬きょう、雷管 (発火装置)など95点が出土したと発表した。市教委学芸員の中原幹彦さんは「薩軍が旧式銃で戦ったという従来のイメージを覆す成果」としている。


熊本市教委が発掘調査


 田原坂西南戦争最大の激戦地。同市と玉東町にまたがる西南戦争遺跡群の国史跡指定に向けて2009年から田原坂で初となる発掘調査が行われており、今回の発見は初めての具体的成果。調査では昨年11月から、公園北側の「崇烈碑」周辺と南側の田原坂資料館横で幅約1メートル、深さ30-50センチの溝20力所(計約180平方メートル)を掘った。
 主に官軍が使っていたという当時最新式のスナイドル銃やスペンサー銃の薬きょうや雷管、塹壕跡が見つかったのは崇烈碑の西側斜面。旧式銃の雷管も出土し、薩軍が3種類の小銃を使っていたことがうかがえる。官軍側か撃ち込んだとみられる野戦用人砲「四斤山砲」の砲弾片なども見つかった。
 土壌も分析した結果、稲や竹に含まれる植物珪酸体を検出。一帯は斜面で水田であった可能性が低いことから、薩軍が防御用の胸壁を築くために使った米俵や竹製の生活用具などが埋まっていたことを示しているという。
 中原さんは「国指定には陣地の存在が明確に分かる遺構や遺物の発見が必要。文献などで分かっている戦いの内容を物的証拠によって裏付けることができ、指定に向けて一歩前進した」と話している。(鎌倉尊信)